明治期を代表する詩歌雑誌著名な『明星』を舞台に活躍した小浜市出身山川登美子の実 家が「山川登美子記念館」として公開されている。
病没の前に建て替えられており、誕生時の建物ではないが、この家の奥座敷(登美子の間)で明治42年死去した。
登美子は明治12年、この地で山川禎蔵の四女として生まれた。
山川家は旧小浜藩酒井家に仕えた家柄で、登美子誕生時、父禎蔵は小浜藩士族らが金禄公債証書を資本にして明治10年に設立し、翌明治11年1月に資本金13万円で開業した第二十五国立銀行の副頭取の職にあった
二十五銀行は現在の小浜市玉前に本店が置かれ、小浜藩の上級武士を中心に200名前後の株主、頭取は村松升、支配人は野田宗兵衛が務めていた。顧客が頭を下げなければならない典型的な士族銀行であったとされる。後に敦賀銀行と合併し
、敦賀二十五銀行となり、昭和11年大和田銀行に合併されている。
父禎蔵は、一時銀行の役職から離れたもの明治31年には二十五銀行頭取に就任し、10年の長期にわたり経営に従事した。
登美子は、厳格な父のもと経済的にはめぐまれた家庭に育ち、少女時代より和歌に親しみ、大阪に嫁いだ姉宅より梅花女学校に通学し、卒業後も梅花女学校の研究生となって英語を学ぶ傍ら、女流歌人として活躍した。
『明星』を舞台に晶子とその才能を競い、与謝野鉄幹をめぐっても昌子と恋のライバルであったとされる。
しかし明治33年、父が決めた山川本家の山川駐七郎と結婚し、いったんは歌の道から離れるも、僅か2年で夫駐七郎と死別し、翌年実家に復籍する。その後上京し日本女子大学英文科に学び、再び『明星』を舞台に活躍。
晶子と増田雅子との共著「恋衣」を刊行し高い評価を受けるが、間もなく夫からの感染とおもわれる結核に侵され、大学も中退し、暫く京都の姉宅で療養生活を送った。
しかし、父貞蔵が病に倒れたため、41年1月姉とともに看病のため小浜に戻るが、その甲斐なく禎蔵は24日に死去、登美子もそのまま実家で闘病生活に入り、明治42年4月25日、
母と弟に看取られ29才の若さで短い生涯を終える。
平成17年に実家が、平成18年には遺品が遺族より小浜市に寄付されたのを機会に「山川登美子記念館」として整備開館した。
終焉の奥座敷(登美子の間)や生前の身回品々や歌稿などが展示されている。
▼庭から見た登美子の間 |
▼人の駅の案内 |
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開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時半まで)
観覧料 大人300円/高校・大学生200円(中学生以下無料)
休館日 毎週火曜日(年末年始12月29日〜1月3日)
地図はここ
その他登美子関連スポット
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▼登美子の墓
登美子の墓は小浜市内の発心寺にある
発心寺はこちら |
▼登美子の歌碑
小浜公園
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父禎蔵ゆかりの《二十五銀行》関連資料
二十五銀行記念絵はがき

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明治31年(禎蔵が頭取に就いた頃)の銀行概要
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明治29年調査
(禎蔵はこの時は頭取ではない) |
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