越前若狭歴史回廊  分館
   
神宮寺 (じんぐうじ  福井県小浜市神宮寺)
若狭武田氏祈願所、武田元明蟄居の地

  神宮寺は和銅7年(714)泰澄大師弟子滑元による創建の伝承を有し、はじめ神願寺と称し、近世までは若狭鎮守一二宮(若狭彦神社・若狭姫神社) の神宮院(付属寺院)であった。かつては二十五坊を誇ったとされ、現在も周辺に不動坊などの字名が残っている。天台宗で号は霊応山。

 本堂は、室町末期の代表的建造物で、単層入母屋造檜皮葺で重要文化財、天文3年朝倉義景によって再建された。また神宮寺北門にあたる仁王門(間口6.3m、奥行き3.6m、棟高5.5m)も重要文化財である。

 神宮寺は、一般には3月2日の「お水送り」で知られている。奈良の東大寺二月堂に香水を送る神事で、若狭では、お水送りが終わると春が訪れるといわれている。

▼重要文化財の本堂 ▼根来川鵜瀬の淵で神事が執り行われる

 若狭武田氏当主武田元信がここを祈願所として以来、若狭守護武田氏の代々の祈願所となった。

 戦国末期、最後の武田氏当主武田元明は、朝倉氏に拉致(保護)され、一乗谷に居住したが、天正元年(1573)8月、 越前朝倉氏は織田信長の手により滅亡 。この時、元明は信長に同心した若狭武田氏の被官人らの懸命の嘆願により赦免され、若狭へ帰国し、ここ神宮寺に蟄居したとされる。

 一乗谷居住時代、室の京極竜子は元守護で祖父の信豊と小浜の武田氏守護館に留まり、別居生活を強いられていた。元明が朝倉氏に拉致(保護)された翌年の永禄12年、連歌師里村紹巴が小浜を訪れたさいには、連歌会や源氏 物語の講釈会を開き、守護館で京極竜子と顔をあわせている。
 なお、若狭に戻った 元明は、神宮寺で竜子は共に暮らすことができ、伝承では2男1女を設けたとされる。
 近くには竜子の産所となった民家や産湯に使われた池とされる跡が残っている。現存している文書から見て、子があったかどうかは別として、竜子となんらかの関係があったことは間違いないと思われる。

 この時代、元明は蟄居とはいえ実際にはしばしば上洛し、かつての名門守護家の末裔として、名だけとはいえ、若狭被官人を束ねる地位にあった。元明夫妻にとって一番平穏な時期であったかも知れない。天正9年 には、大飯郡を支配していた旧被官人逸見昌経の没した後は、信長から彼の遺領のうち三千石を与えられている。

 しかし、天正11年本能寺の変が起きると、元明は旧領奪還の好機と見たのか明智光秀に加担。兵を起こし、丹羽長秀の佐和山城を攻め落とした。このため明智滅亡の後、丹羽長秀に海津の宝幢院に呼び出され、7月19日自害を強いられ、ここに若狭武田氏は滅亡した。
 なお伝承では2人の男子は謀殺されたとされている。

地図はこちら

*元明自刃の地である宝幢院、元明の墓はこちらを参照ください。

 

   


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