越前若狭歴史回廊  分館
   
宝幢院 (ほうどういん  滋賀県高島郡マキノ町海津)
最後の若狭武田氏当主武田元明自刃の地(墓所)

 宝幢院は、天平二年(七三〇年)に仏地院として泰澄大師が創建したとの伝承があるが、一時衰退し、嘉吉二年(一四四二年)に紀州根来寺の僧真遍上人が再建し 、名を宝幢院と改めたといわれている。
 正式には真言宗智山派宝幢院薬師寺と言う。
 琵琶湖西岸の西近江路沿いにあり、道から少し入ると山門が見えてくる。この山門は峰山の最勝寺跡に残っていたものを明治三一年に移築したとされている。
 
 この寺は、若狭武田氏と直接の関係は無いが、最後の若狭守護であった武田元明が自刃に追い込まれた寺として小説などにも登場する。
 天正元年(一五七三)八月、織田信長の手により百年の栄華を誇った越前朝倉氏は滅亡に追いやられる。この時、若狭守護武田元明は 、朝倉氏に拉致(保護)され、一乗谷に居住し、朝倉寄りであったが、信長に同心した若狭武田氏の被官人らの懸命の嘆願により赦免され、若狭へ帰国した。
 信長は、若狭そのものは丹羽長秀に与えたものの、かつての名門守護家の末裔として、元明をその後はしばしば上洛させるなど遇している。天正九年、かつての若狭武田氏重臣逸見昌経が没した際には、これまた若狭の元被官人の嘆願を受け入れ、逸見氏の所領大飯郡のうち三千石を元明に与えてもいる。
 実は、もう一人の若狭武田氏重臣粟屋勝久は、守護武田氏に繰り返し反乱を起こしたものの、主家若狭武田氏への思いは強く、元明の赦免にあたっても、また逸見氏遺領の分地についても、力を尽くしてい たのである。

 ところが、天正十一年六月、本能寺の変で信長が殺された時、元明は明智に加担し兵を起す。この時、元明を庇い続けた粟屋氏は秀吉に従い中国攻めに加わって いたため若狭を離れており、元明を制することが出来なかったのである。
 元明は旧領回復を企て、若狭に残っていた被官人らをまとめ、六月四日兵を起こすと、丹羽長秀の居城佐和山城の攻撃を開始、これを攻め落とした。
 彼が武将らしく行動したのは、これが最初で最後であった。
 しかし、明智滅亡の後、丹羽長秀に海津に呼び出された元明は、明智加担の責めを問われ、七月十九日自害を強いられた。
 


 法名は法雲寺殿文甫紹昌。ここに若狭武田氏は滅亡した。墓は宝幢院墓地の敷地の隣(旧墓地)にある。


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