戦国期の浅井三姉妹の話は有名だが、常高院はこの浅井三姉妹の次女お初のことである。
信長の妹お市と浅井長政との間にできた三姉妹で、長女は淀殿(秀吉の側室、秀頼生母)、三女はお江(徳川二代将軍秀忠室、三代将軍家光母、東福門院母)である。
2人に比べるとやや地味な感じは否めないが、浅井氏の主家にあたる京極家の嫡男京極高次に嫁した。
この間の経緯(浅井氏滅亡、お市の柴田勝家への再嫁、北ノ庄滅亡)は長くなるので省略するが、夫の京極高次は関ヶ原の合戦で徳川家康に与し、その功により若狭8万5千石を受領して小浜城主となった。常高院(お初)と小浜の関係はここからはじまる。
夫の高次は、それまでの後瀬山城を廃し、新たに小浜城を築城、また城下まち小浜の整備に取組んだが、小浜城の完成を見ることなく慶長14年に小浜城内で病没、お初は剃髪して以後常高院と称した。
豊臣(姉淀婚家)と徳川(妹江婚家)が対立した大坂の陣では、大坂城に入り両者の和議交渉にあったが、最後は両者が決裂、大坂城は落城、姉淀殿は秀頼ともども自刃した。
織田信長の天下統一に向けた戦いから、豊臣時代、徳川体制の確立を身をもって体験した三姉妹であった。
晩年は江戸に滞在していたが、夫高次との思い出深い小浜に常高寺を建立、菩提寺とした。
寛18年8月京極家の江戸屋敷にて病没、遺骸は小浜城まで運ばれ、常高寺において藩主忠高(高次嫡男)の参列のもと執り行われた。
墓は大きな宝筐印塔で、常高院墓所として現存。
墓所へは国道を渡らなければならず、不便で、現在ルートを整備中とのことである。渡ったところから少し山を登る。墓の宝筐印塔は高さ4mと言われる。周囲には宝篋印塔を護るように尼僧たちの墓がたてらているが、正面の墓は常高院の没後この地に移り、尼となって廟を守った7人の侍女たちの墓である。
▼宝筐印塔(墓) |
▼7院(侍女)墓 |
▼墓までは少し登る |
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寺は、江戸期には京極家やその後を継いで小浜を治めた酒井家からも保護され、明治期までは隆盛を誇ったが、維新後これらの保護はなくなり衰退した。
寺域も、あらたに設置された国道で分断されるなど荒廃したが、近年になり、再建の気運が高まり、平成に入ってから山門、書院等を修復、平成13年には本堂が再建され現在に至っている。
(拝観料)
境内、墓所自由見学(無料)
本堂 400円 / 庭園 200円
【地図】
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