越前若狭歴史回廊  分館
   
長福寺 (ちょうふくじ 大飯郡高浜町若宮3)
武田信栄菩提寺

 長福寺は、 若狭武田氏初代となる武田信栄の菩提寺で慶雲山と号し、臨済宗相国寺派に属している。
 永享年間に武田氏によって創建され、開山は性天景繕和尚(相国寺)といわれている。

 万人恐怖と言われた第六代室町幕府将軍足利義教は、神(籤)によって選ばれたとの強い意識があったのであろうか、権力の絶対化に執心し、 その専制政治の被害は大名や公家のみならず女房衆にまで及んでいた。

 若狭や三河、丹後の有力守護にある一色義貫もその例外ではなかった。義貫とともに大和に出陣していた武田信栄に、将軍から義貫暗殺の密命が与えられた。

 永亨十二年五月一五日、武田信栄は一色義貫を討伐し、その功により安芸分郡守護に加え、若狭の一国守護職を得た 。この時から武田氏による若狭支配がはじまる。翌六月、信栄はさっそく若狭に下向したが、しかし、その統治は長くは続かなかった。病気となり、守護職を得て僅か 二ヶ月後の七月二三日に二八歳の若さで死没した。家督は次弟の信賢が継いだが、一説によれば、一色義貫討伐の際、一色氏の若狭守護代にあった三方氏の太刀を受け、負傷したのが原因であったとも言われている。

 菩提寺として創建された長福寺は、最初現在地よりも矢穴に近い海岸沿いにあったといわれている。小浜でなく高浜に建立されたのは、若狭守護職を得たとはいえ、小浜も含め今富名が依然一色氏の支配下に置かれていたからであろう。小浜の支配を実効あるものにするには、まだまだ時間が足りなかった。
 往時は、武田氏の初代守護の菩提寺として相応の伽藍、堂宇を誇っていたと伝えられている。

 
▼長福寺山門 ▼長福寺境内

 現在地に移ったのは、若狭武田氏重臣逸見氏が主家に叛旗し、高浜城を築いた時である。新城の敷地の一部として寺地は没収され、少し離れた地に移った。
 その後もかなりの規模であったと推定されるが、しかし、享保十二年の高浜大火で全山焼失し、その後再建、現在に至っているものの規模は大きく損なわれた。僅かに「武田氏年譜写本」を伝えるのみとなっている。

 

   


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