越前若狭歴史回廊  分館
   
武田元明正室・京極竜子のゆかりの地を訪ねて


 武田元明正室、後に豊臣秀吉の側室となり、松の丸殿とか西の丸殿と呼ばれた女性で、秀吉関連の小説、テレビ、映画に欠かせない人物である。

 北近江の守護家の京極氏の出身である。父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)。兄(弟)に京極高次 、弟に京極高知がいる。
 京極氏の名は、かつて京都の館が京極高辻にあったことに由来する。南北朝期にはバサラ大名といわれた佐々木道誉によって幕府政治にも深く関わり、山名・一色・赤松の諸氏に並んで四職の一つに数えられるほどの名門となった。しかし応仁の乱後、家督争いで衰退し、やがて浅井氏に湖北を押領されるにいたる。
 嫁ぎ先の若狭武田氏もこの頃には重臣達の離反が重なり、守護の権威は低下。名ばかり守護の状態であった。とはいえ、元明は若狭守護武田義統の長子、母は足利義晴女で、まさに名門同士の婚姻であった。

 しかし、守護館での平穏な生活は長くはつづかなかった。
 永禄11(1568)年8月、越前朝倉氏は、守護の権威が低下し混乱する若狭に本格的に進攻、元明は越前へ拉致(保護)されてしまう。朝倉氏は名目は武田氏との盟約に基づく保護であるが、実際は若狭を支配するための行動である。
 竜子がこの時どうしたのかはっきりしない。ただ翌年、連歌師里村紹巴が小浜を訪れ、連歌会や源氏の講釈会を開いた際、竜子は元明祖父の武田信豊とともに 小浜守護館で暮らしていたことが確認されている。夫が拉致(保護)された越前朝倉氏の一乗谷には同行しなかったのか、あるいは、里村紹巴の小浜訪問に合わせて、一乗谷から一時帰国したのかは不明である。

 元亀4年、今度は朝倉氏が織田信長によって、滅亡に追い込まれる。夫の元明は織田軍の先鋒として一乗谷に突入した若狭衆によって、救出保護され、若狭神宮寺に蟄居する。
 しかし実際にはしばしば上洛するなど、かつての名門守護家の末裔として、若狭被官人を束ねる名目上の地位にあったとかんがえられる。
 神宮寺では元明と竜子は共に暮し、伝承では2男1女を設けたとされる。
 近くには竜子の産所となった民家や産湯に使われた池とされる跡が残っている。
 天正9年には、大飯郡を支配していた旧被官人である逸見昌経が病没し、信長から彼の遺領のうち三千石を与えられている。

▼若狭武田氏後瀬山城址 ▼武田氏守護所跡(空印寺) ▼神宮寺



 しかし、またもや運命の歯車が狂いはじめる。
 天正11年6月本能寺の変が起きると、夫元明は旧領奪還の好機と見たのか、明智光秀に加担。兵を起こし、丹羽長秀の佐和山城を攻め落とした。このため光秀滅亡後に丹羽長秀に海津の宝幢院に呼び出され、7月19日自害を強いられ、ここに若狭武田氏は滅亡した。
 秀吉が美貌の竜子を手に入れるために、丹羽長秀に命じ、元明に自害を強いたとも言われるが、未だ、秀吉はそのような権力を入手しておらず、まして丹羽長秀に命令できる立場にない。丹羽長秀は、居城佐和山城攻撃した武田元明の討伐は必然であった。

 一方、実家の京極家を嗣いだ兄(弟)の京極高次も光秀に同心し、秀吉の長浜城を攻撃していた。このままでは武田氏同様、京極家も滅亡に追込まれるのは必至で、竜子の進退は極まったといえる。やがて竜子は秀吉の側室となって再び歴史に現れる。名門の血筋と美貌のなせるところであった。竜子の願いどおり、天正12年京極高次は秀吉に許され、近江高島郡2,500石を与えられた。その後加増され大溝城も与えられ大名となった。加増はその後も続き、文禄4年(1595年)には近江大津城6万石に封じられた。

▼宝憧院 ▼元明墓 ▼大津城址碑

 

 秀吉側室の竜子は、聚楽第時代は西洞院(賛州屋敷)に居住した。大坂城では西の丸に居住しで西の丸殿と呼ばれ、伏見城では松の丸に移り松の丸殿と称された。淀殿との席次争いは有名であるが、背景には「三管四職」の京極氏の家格があってのことである。淀殿の浅井氏は京極氏の被官人であった。なお淀殿と竜子は従姉妹の関係にある。
 小田原城や名護屋城には淀殿とともに秀吉に呼ばれている。

 秀吉の死後、兄(弟)京極高次の居城大津城に身を寄せたが、関ヶ原の合戦時、高次は東軍(徳川方)に味方したため、大津城は西軍によって包囲、攻撃を受けることとなる。この時、竜子だけでなく、高次の正室お初(常高院)も在城していた。
 西軍の猛烈な攻撃の前に、大津城は開城を余儀なくされ、関係者ともども城を退出した。
しかし、合戦後、徳川家康は西軍軍勢を大津城に引きつけた功績を評価し、高次は竜子ゆかりの若狭一国8万5,000石へ加増転封となっている。
 竜子は、その後は、再び西洞院に居を構え、北政所や淀殿と親交を続けていた。

▼京・賛州屋敷跡付近 ▼大津城付近現況(浜大津駅) ▼大津城址から見た琵琶湖



 その竜子の人生で、誓願寺の整備は欠かせない事蹟である。
 天正19(1591)年、秀吉により京の町割り(区画整理)が行われ、各寺院は寺町に移転を余儀なくされる。誓願寺は、元誓願寺町(現在の東町、仲之町あたり)にあったが、天正元年の火災により荒廃が激しく、移転再建は大きな負担であった。危機を救ったのが松の丸をはじめ京極氏であった。慶長2(1597)年、境内地6千坪(表門は寺町六角、裏門は三条通に北面)、壮大な伽藍を備え、京都有数の巨刹の規模を有して落慶できたのは、松の丸をはじめ京極氏の支援の賜であった。因みに誓願寺の寺紋は、京極氏の家紋「三つ盛り亀甲」に由来する。

 松の丸(竜子)と請願寺に関しては、もう一つ特記すべきことがある。
元和元(1615)年、大坂夏の陣の際、豊臣秀頼は当時8才の嗣子国松を大坂城から逃がしたが、豊臣氏滅亡後見つけ出され、5月23日六条河原で処刑された。国松は、幼少時代から若狭京極家に預けられており、京極家との関係は深い。このため、竜子は国松の遺体を引取り、誓願寺の境内に埋葬した。また自身の墓もその隣に建立している。


 時が流れ、明治維新後、天皇が東京に去り、京都は衰退の一途を辿る。京都府は、再興に向けて殖産興業に力を入れるとともに、寺町付近の寺院の境内を接収し、新京極通りを拓き繁華街とした。
 この結果請願寺も広大な境内の縮小を余儀なくされ、松の丸と国松の墓は寺町通りに取り残される結果となった。このため、京極氏関係者の手によって、2人の墓は秀吉が眠る豊国廟へと移された。
 

▼誓願寺 ▼新京極 ▼松の丸と国松(左)の墓

 


Copyright (c) 2010 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2005-2010年 

 

   


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