越前若狭歴史回廊  分館
   
栖雲寺 (せいうんじ 小浜市浅間)
武田信親墓所

 栖雲寺は、万松山と号し、臨済宗妙心寺派に属し、常 高院(お市の娘)で著名な常高寺の惣門内にある。
 文明十五年(1482)、武田信親の創建 とされる。信親は、若狭守護三代国信の嫡男として誕生し、幼名は彦太カ。少年の頃から将軍の供衆として名前が見え、将軍義尚の犬追物興行にも何回か参加している。文明十二年には相伴衆になった。
 開山は信親の招聘で京都東山建仁寺の僧潤甫周玉といわれている。
 しかし、僧潤甫周玉は元信の子で信親の甥にあたり、二四才の若さで没した信親が、十才以上も年下の弟の子供を招いて建立したとするのは無理がある。

 「若狭国税所今富名領主代々次第」の応永十四年(1407)五月の記事に、「当浜御成ありて栖雲寺に御座」とあって、大御所足利義満が栖雲寺に「御座」しており、この事実からすると、一旦衰微した栖雲寺を、武田信親が再興し、武田氏と関係の深い建仁寺系の僧が住持となって、建仁寺系の寺院として存続したと考えるのが妥当であろう。

 信親の父国信は、応仁の乱で東軍に属し活躍し、文芸面でも、文明11年に、当時の歌人・書家では第一人者の飛鳥井雅親を若狭へ招いたり、長亨元年(1487)11月には、近江鈎の陣(安養寺)で、雅親の弟雅康を招き 、将軍義尚らと連歌を興行するなど活躍するが、信親の場合は早世のため事績が充分ではない。それでも、禅に深く帰依し、一休宗純の弟子となっていたことがわかっている。
 
▼栖雲寺山門 ▼栖雲寺境内

 栖雲寺は、潤甫周玉が没した天文一七年(1548)以後は無住となり、衰微していたとされるが、後、小浜領主となった浅野長政が扶助し 、その後に入部した京極高次からも寄進を受けるなど保護されている。

 もともとは現在の常高寺の場所にあったが、寛永七年(1630)、常高寺が創建されたため一時断絶し、寛文二年(1662)現在地に再建された。
 墓地には武田信親の供養塔(宝篋印塔)が残っている

 

   


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