越前若狭歴史回廊  分館
   
竜泉寺 (りゅうせんじ 小浜市新保)
武田信高(宮川殿)墓所


 小浜市新保の竜泉寺は新保集落の北西谷間にある曹洞宗の寺院で、若狭守護武田信豊の弟で新保山城主武田信高によって創建され、信高の菩提寺ともなっている寺である。
 
 天文七年の若狭武田氏重臣粟屋元隆の反乱は、守護武田氏の若狭支配はじまって以来の危機であったが、この反乱を押さえ込むことに成功した守護武田信豊は、遠敷郡における粟屋一族の拠点となっていた宮川に弟信高を入部させ領国支配の強化を狙った。
 これにより信高は、宮川のかつての粟屋氏居城新保山城に入り、宮川殿とよばれ、兄信豊の奉行人として活躍した。室は細川幽齋の姉(宮川尼)である。
 
 新保山城は小浜市新保・大谷地区にあり、別名霞美ヶ城ともいう。新保集落の北側の裏山で標高二九三mあり、城は稜線上に蛇行して、全長二五〇m、最大幅一七m の郭跡が残っている。また、西側尾根筋の大谷側にも郭跡があり、東西二一〇m、最大幅五〇mで、天然の要害となっている。
 築城者は諸説あるが、大永年間に粟屋一族が築いたと見るのが妥当であろう。
 
▼竜泉寺 ▼新保山城跡遠景


 新保山城に入った信高(宮川殿)は、弘治二年(一五五六)信豊・義統親子が争ったさい信豊方についたとされるが、その最中に没している。討死説もあるが、討死であれば何らかの記録が残ってもおかしくなく、病死したと考えるのが妥当であろう。その跡職は信豊の子信方が継いでいる。

 信方は、元亀元年(一五七〇)織田信長の越前攻めに際しては、若狭で反信長勢力を結成し、最後までその中心として抵抗したが、天正元年朝倉氏滅亡後、若狭に入部した丹羽長秀によっ新保山城を追われ没落した。
 
 若狭武田氏最後の当主元明も本能寺の変に加担した咎で、丹羽長秀によって自刃を強いられて、名門若狭武田氏は滅亡する。その後の武田一族の消息は若狭では不明となるが、京都建仁寺長老英甫永雄(えいほようゆう)の仲介で細川氏を頼り、熊本に移ったと考えられる。
 
 竜泉寺には信高・信方の肖像画が今も残っているが、信高肖像画には英甫永雄(雄長老)の讃がある。

 

地図はここ

 

   


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