越前若狭歴史回廊  分館
   
安芸の武田氏遺蹟を訪ねて (広島県広島市)


 安芸の分郡守護であった武田氏が若狭一国の守護職を得たのは、永享12(1440)年5月のことである。
 当時の当主は武田信栄。将軍足利義教の命で一色義貫を討って待望の一国の守護となった。ただ、武田氏はその後も安芸の分郡守護職を保持し続けた。
 安芸における武田氏の本拠が銀山城である。武田氏に因んで武田山ともいわれる。武田山には今も多くの遺構が残っている。
 早速、広島市安佐南区祇園町の銀山城址に行って見る。交通の便は悪く、JR可部線下祇園駅から徒歩30分とのこと。車であれば武田山憩いの森まで車で行って、憩いの森の駐車場に駐めて登ることになる。標高400mを超えており、途中急峻なところもあり、かなり体力を消耗する。1時間はかかる。

▼登山道 ▼馬返し郭 ▼山頂の館跡


 

 山麓に武田氏一族の墓が残っている。「銀山城武田の墓」の石標が建立されている。憩いの森の駐車場から案内標識がでているので、駐車場後背の山裾の道を行くと、畑の中に石積みがあり、簡単に行ける。ただ、どれが誰の墓かは不明である。

▼「銀山城武田の墓」の石標 ▼武田氏墓 ▼石標横の解説

 

 その近くに立専寺(広島市安佐南区山本9丁目)がある。もとは武将山金龍院といい、武田氏の菩提寺だったところである。
 武田氏の衰退(滅亡)により廃寺となっていたものを、天文4(1535)年に僧正春により再興され武将山立専寺と改称された。入口には「銀山城主武田家菩提寺」と彫られた石標が建立されている。
 本堂は明治34年の建立であるが、山門は16世紀との伝承が残る。

▼「銀山城主武田家菩提寺」石標 ▼武将山立専寺 ▼立専寺由来

 


 広島市安佐南区祇園五丁目に新羅神社がある。武田氏の祖先にあたる新羅三郎義光を祭った神社である。安芸に下向した武田信宗が甲斐から勧請したとされ、武田氏が滅亡までは武田氏の守護神として崇敬を集めた。

▼勾配がきつい参道の石段 ▼社殿

 

 東区牛田新町三丁目の不動院はかつて安芸安国寺とも呼ばれる大寺院であった。南北朝時代、足利尊氏・直義兄弟が諸国に安国寺を建立したが、安芸国でも安国寺が置かれ、武田氏時代にもその保護のもと で栄えた。武田氏の滅亡とともに寺運も傾いたが、後に武田氏の一族の末裔(一説には最後の安芸武田当主信実の遺児といわれる)で、毛利氏の使僧として豊臣時代に活躍した安国寺恵瓊(えけい)により再興された。なお武田刑部少輔之墓が裏山の墓地にあるが、この刑部少輔が誰をさすのかは、武田光和とする説、最後の城主信実とするなど諸説ある。恵瓊の墓もここにある。

▼不動院楼門 ▼不動院由来記 ▼武田刑部少輔之墓

 


 標高410.9mの武田山銀山城は、名城とされ、戦国期中国地方の覇者ともいうべき大内氏の度重なる攻撃にも落ちなかったとされる。しかし、武田氏の勢力の衰えた天文10年(1541年)、大内氏麾下の毛利元就らの攻略によって、最後の城主 信実(光和の養子)は逃亡、ついに開城に追い込まれた。
 開城にあたっては悲話も語り継がれ、広島市安佐南区長楽寺2丁目には武田氏一族のものといわれる墓塔が残っており、近年ここに「武田一族終焉の地」の石碑が建立された。

▼五輪塔墓石の一部が残る ▼首切り処刑などの伝承も残る ▼「武田一族終焉の地」の石碑


Copyright (c) 2009 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2009年10月 

 

   


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