越前若狭歴史回廊  分館
   
徳賞寺 (福井県三方郡美浜町佐柿)
若狭武田氏重臣 粟屋勝久墓所

 徳賞寺は陽光山と号す曹洞宗の寺院で、開基は粟屋勝久である。 越前と国境を接していたため、朝倉氏から何回も攻撃されながら、国吉城篭城戦を戦い拔いた歴戦の武将である。

 勝久は、永禄四年正月、砕導山城主逸見昌経と組み、守護武田氏へ叛乱するも、朝倉氏の介入で失敗。しかし、その後は小浜の武田氏には出仕せず、国吉城に篭る。そして、永禄九年、再び逸見氏ともども叛乱をおこしている。

 永禄十一年、越前朝倉氏の若狭進攻で、最後の武田当主元明は越前へ拉致(保護)され、勝久をはじめ若狭衆は信長に通じたが、それでも心は武田氏のもとにあ ったのであろうか。織田信長の攻撃で朝倉氏が滅亡した後、勝久は解放された元明の助命を、他の若狭被官人ともども信長に嘆願している。

 徳賞寺は、もともとは天文年間に祐という禅僧が旭渓の麓で草菴を結んでいたものを、朝倉氏との篭城戦で戦死した兵を弔うために勝久が寺領を寄進して、永禄六年(1563)徳賞寺として開かせたものである。
 越前盛景寺(現武生市)八世機山祖全を開山とする。
 
 佐柿集落の南端から国吉城跡登山道へ繋がる道を進み、登山道の方に折れずに直進すると山裾に徳賞寺がある。なお、途中には青蓮寺がある。朝倉氏滅亡の際、一乗谷に一番乗りした粟屋勝久が持ち帰った五百体愛染明王図、高麗青磁浮牡丹皿が寄進されている寺である。

▼本堂 ▼南端から東(山裾)方向へ進む


勝久墓

 

 立地的に国吉城の麓で、城主居館にも隣接しており、城の守り(砦)を兼ねたものであった。

 現在の本堂は江戸時代中期の建築と考えられており、庫裏は天保十二年の再建が確認されている。

 山門も立派なもので、裏墓地には粟屋勝久(天正十三年二月没)の墓が残されている。
 

 

Copyright (c) 2003 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2003年6月-9月 

 

   


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