越前若狭歴史回廊  分館
   
高浜城跡 (福井県大飯郡高浜町事代)
戦国期・逸見氏の水城を兼ねた平山城

 高浜は若狭の最西部にあたり、永享十二年一色氏に代わって武田氏が守護になると、武田氏一門出身の逸見氏が高浜に入部し、威勢を振るった。
 逸見氏の実際の高浜入部は、嘉吉年間と推定されているが、応仁の乱を経て丹後一色氏と緊張が増す中で、次々と当地に城を築いていくこととなる。そして丹後政策の食い違いからか、やがて守護武田氏の被官人でありながら、武田氏と争うこととなるのである。
 逸見氏は元来は高浜の砕導山城(さいちやまじょう)を本城としていた。砕導山城はスケールが大きく未だその全容は解明されていないが、守護武田氏の後瀬山城を上回る規模であったとされている。
 永禄四年逸見昌経は同じ武田氏被官人粟屋勝久(国吉城主)と手を組んで守護武田氏に反抗したが、逆に武田氏によって攻撃され、落城の憂き目に会う。そして落城から四年後の永禄八年、昌経は高浜の中央部の海に向かって突出する二つの小半島を 包摂する所に、あらたに城を築き本城とした。これが高浜城である。
 そして、永禄九年再び昌経は反乱を起すが、これも敗北に終わっている。

 高浜城跡は、現在は城山公園となっており、公園工事に伴い遺構は旧態をとどめていないが、海に突き出た半島上を巧みに利用するなど、平山城と水城を兼ねた戦国初期の城とは思えない斬新な縄張りであったと想定される。
 
▼高浜城主郭跡 ▼高浜城址

 北・東・西の三方を海に囲まれるなか、港湾を城郭内に取り込み、半島の山に主郭を置き、平地には二の丸・三の丸を置いていた。また、三の丸には堀があったと伝えられている。
 城郭内に港湾を取り込んでいるため、永禄九年の反抗に際しては海上から武田氏を攻撃している。逸見氏は水軍の伝統を有しており、逸見氏の大島丸山城、オンジョ城など水軍に適した城砦を複数有していた。

 城跡は、国民宿舎城山荘の横の遊歩道から登る。少し歩くと、浜見神社の小さな祠があり、その後方が高浜城の主郭にあたる櫓台跡である。 但し主郭は遊歩道によってその中央部分が削られて二分され、原型を留めていないが、高浜城址の石碑と案内板が設置されている。
 全体として、あまり城跡という感じを受けないが、この神社の登り道はどことなく趣がある。

 逸見氏はその後織田信長と結び各地を転戦したが、天正九年昌経の死で改易され、その後溝口秀勝、山内一豊、木下利房と続くものの、慶長五年関ヶ原の戦で西軍に属したため、兄で小浜藩主の木下勝俊ともども除封され、そのあとには近江の大津城主であった京極高次が若狭一国を領し入部した。小浜城主となった京極高次は、西の要として高浜城代を置いていたが、寛永十一年閏七月、出雲松江に転封となり、そのあとへは老中の要職にあった酒井忠勝が武蔵川越から入部、この時廃城となり、七十年の歴史を閉じた。
 なお、港湾部には足利義満が繰り返し訪れた「八穴(矢穴)の奇勝」と呼ばれる「明鏡洞」がある。

本稿は主サイト「越前若狭歴史回廊・新越前若狭城跡考」に掲載の「高浜城跡」を一部補筆して掲載しています。
Copyright (c) 2002-2003 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2002年10月-2003年7月 

 

   


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