越前若狭歴史回廊  分館
   
国吉城跡 (福井県三方郡美浜町佐柿)
若狭守護武田氏重臣粟屋氏の居城で、
6年間にわたる朝倉氏の猛攻に耐え抜いた城

 越前から若狭に入るには国境の関峠を越えて佐田に入り、さらに御岳山(おたけやま)から天王山に連なる山系を越えるため椿峠を越えなければならい。その峠の麓の地である佐柿の東部に、標高197.3m、山頂から北西に連なる尾根に戦国から近世初めまであった山城が、若狭守護武田氏の被官粟屋氏が守る国吉城である。粟屋氏は守護武田氏の被官人のなかでも逸見氏とならぶ重臣であった。
 尾根の東西は急峻な天然の要害となっており、北は低い尾根で天王山と連なり、その低い部分に椿峠がとおり、越前からの侵攻を防ぐ最適の防御地であった。

 築城時期は、弘治2年(1556)で、粟屋越中守勝久が、古城跡を改修して築いたものである。

 若狭は守護武田氏が遠敷郡(小浜)の後瀬山に城を構え、京側の大飯郡高浜は逸見氏が、越前側の三方郡佐柿には粟屋氏が配置されていたが、守護家の内紛や衰退とともに家臣の統制力は失われつつあった。
 このため武田氏は朝倉氏に支援を要請し、大飯郡の支配は一定程度回復するも、国吉城主粟屋勝久は反朝倉で徹底抗戦の構えをとり、永禄6年(1583)から数年間、越前の朝倉氏と有名な「籠城戦」を戦うことになる。
 数ある中世山城のなかで、国吉城が有名なのは、強力な朝倉軍団による6年にわたる攻勢に耐え抜いたからである。

▼登山口案内 ▼山頂主郭跡

 城跡は山頂一帯に広がる山城部と麓段丘地の粟屋氏(城主)居館跡とに分かれており、現在、城館跡の発掘整備が進められている。
 佐柿集落の南東端から山麓に入っていくと見事な石垣や屋敷跡が見出され、各種サイトでも紹介されているが、これは江戸時代の小浜藩佐柿奉行所跡(御茶屋)で国吉城とは無関係なので注意が必要。

 戦国時代の国吉城の城主居館跡はその北側に広がっている。段々状になっており、石垣の一部や敷石遺構、土塁跡が残っている。
 ここから15分から20分九十九折の山道を登ると地元では二の丸の伝承がある出丸跡に着く。出丸の展望 もなかなかのもので、高さのある土塁跡も残っている。ここからさらに数分登ると本丸の下の堀切跡に到着する。
 本丸から北西方面に向けて連郭式縄張りの郭群が連なっているが、この郭群の高低差はかなりのもので、急峻である。
 本丸(主郭)へ通じる道も、堀切跡から登ることもあり、かなり急である。
 頂上の本丸(主郭)は東西70、南北30mの広さで展望も良く、南端に少し土塁跡が残っている。周囲の石垣は崩れて、現在ではその痕跡が見られる程度である。

 元亀元年(1570)4月、織田信長は朝倉氏を討つため近江より越前へ向ったが、熊川を通り23日佐柿の粟屋勝久の下に着陣した。勝久は信長を当城に迎えて朝倉討伐に参加し、その後は信長臣として各地を転戦した。

本稿は主サイト「越前若狭歴史回廊・新越前若狭城跡考」に掲載の「 国吉城跡」を一部補筆して掲載しています。
Copyright (c) 2003 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2003年6月 

 

   


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