越前若狭歴史回廊  分館
   
若狭武田氏歴代当主事績(六代〜八代)
 
六代
武田信豊
永正11年〜
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 武田信豊(たけだのぶとよ)は、若狭守護武田元光の次男(兄信親は二四歳で早世している)。永正十一年(一五二四)十月五日生まれ。幼名は彦二郎、のちに治部少輔に任じられた。室は近江六角定頼女。
 天文七年(一五三八)の家督相続をめぐる粟屋元隆の反乱制圧以後、若狭国守護となったと考えられるが、天文八年十二月十二日、従五位下に敘せられ、同日、伊豆守となっており実質この時家督を継承し、守護に就いたと考えられる。
 
 天文十一年三月十七日、細川晴元に合力し、河内太平寺に三好長慶を攻めるが、武田信豊の軍事の中心であった粟屋党を多数敗死させている。武将としての素質に疑念が持たれる結果となっている。それでも逸見氏との関係は悪くなく、信豊時代は逸見昌経はその奏者を務めている。

 反面、文化面での動きは大変活発なもので、父元光と同じく武家故実の筆写をよくし、また連歌師宗養吉田兼右らも若狭へ下向しており、天文二十一年(一五五二)正月、三好長慶に京都を制圧され出家した細川晴元は、武田信豊を頼って若狭に逗留し、この時信豊による連歌興行が行なわれている。 
 しかし、同年三月二一日には元被官人の粟屋右馬允が近江から若狭街道を攻め入り、吉田村(福井県遠敷郡上中町)を焼き払うなど国内は依然騒然としており、信豊は子の信方を派遣し防戦し、これを国外に追い出している。
 その後、細川晴元から助力を要請され、同二十三年に信豊は高浜の逸見昌経や和田の粟屋氏ら大飯郡の武士たちを丹後・丹波へ派遣し、晴元方丹波勢に合力して京都三好党の松永長頼と戦わせている。

 しかし、弘治二年(一五五六)には、信豊の隱居をめぐって被官人の間で争いが起こり、 信豊の弟で信豊を支持していた小浜新保山城主の信高も渦中で没したこともあり、家督を子の義統に讓った 。しかしその後も、隱居料をめぐり不和となり、一時信豊は近江に逃げ、永禄元年(一五五八)には若狭入国を果たすため、義統軍と戦うなど親子での争いが続いた。
 この争いは、永禄四年にごろまでに和議が成立し、帰国を果たした。
 信豊はこの頃入道し、紹真と号した。
 晩年は子の義統に先立たれ、孫の元明は朝倉氏に拉致され、元明の室(のちの豊臣秀吉の側室となった松丸殿)と守護館で暮らしていたが、文芸活動は依然熱心であった。元明が朝倉氏に拉致された翌年の永禄十二年、連歌師里村紹巴が小浜を訪れたさいには、連歌会や源氏の講釈会を開いている。
 紹巴は、広大な守護館や後瀬山城を見て感慨深げであったという。
 法名は霊雲寺殿大仙紹其。
 
七代
武田義統
大永6年?〜
永禄10年
 武田義統(たけだよしずみ)は、若狭守護武田信豊の長子。大永六年?(一五二六)生まれ。幼名は夢二郎、治部少輔となり、伊豆守、大膳大夫を歴任した。
 天文十七年(一五四八)三月二四日、将軍足利義輝の妹を室に迎えた。これにより、同二五日「義」を賜わり、信統を義統と改名したとされる。
 弘治二年(一五五六)頃からの信豊・義統父子の家督相続問題で争いがおきるが、信豊の弟で信豊を強く支持する小浜新保山城主の信高が没すると、信豊は隱居 を余儀なくされ、結果義統が若狭国守護となった。
 しかし、ことはそれで片付かなかった。永禄元年(一五五八)七月には隱居料をめぐって再びもめ、信豊は近江の六角氏を頼って出国し、態勢を整えて遠敷郡へ攻め込む事態となった。これらの内紛は、信豊・義統それぞれの家臣間の対立を背景としているため、永禄四年ごろまで続いた。すでに武田氏による家臣統制力は失われ、被官人の分裂が生じていたのである。

 そして、永禄四年正月、以前から謀反の兆しがあった国吉城主栗屋勝久砕導山城主逸見昌経勢の反乱が起きる。 武田氏にとっては、天文七年の粟屋元驍フ反乱以来の最大の危機であったといえる。義統は朝倉氏に支援を求め、11,000の援軍とともに砕導山に立て篭もった逸見氏・粟屋氏らの8,000の連合軍に立ち向かい、六月十九日これを落としている。しかし、逸見氏、粟屋氏を討伐するところまでには至っていない。
 
 この後、三方郡の粟屋氏はその後武田氏の支配から事実上分離する事態となっていく。 逸見氏は砕導山を落とされたため、今度は高浜に水・平山城を築城し、永禄九年、今度は義統の子元明擁立を旗印に再び、粟屋勝久と連携し、高浜と三方という東西で叛乱を起す。義統は再び朝倉氏に援軍を頼み、粟屋氏の居城を包囲させ そこに釘付けにしておいて、自らは全軍事力で逸見氏に立ち向かい、再度これを破っている。 特に逸見氏の水軍に対抗して自らも水軍を編成して、逸見軍を打ち破るなど、歴代武田氏のなかでも優れた武将であったといえる。

 しかし、被官人の思惑で前半は父親の信豊と、後半は子の元明と争わざるをえないなど、落日の守護家を建て直すことはできなかった。
 永禄九年(一五六六)八月、姉婿義統を頼って足利義秋(義昭)が若狭へ入国したが、義統・元明父子の不和で、入洛は無理と判断、 義秋は越前朝倉氏へと向かった。
 永禄十年四月八日、父信豊に先立ち死去。法名は桂林寺殿聖寂宗清。
 
八代
武田元明
天文21年〜
天正11年
 武田元明(たけだもとあき)は、若狭守護武田義統の長子。天文二十一年(一五五二)生まれ。母は足利義晴女で幼名孫八郎、元次と称した。室は京極高吉 女で、のちの豊臣秀吉の側室となった松丸殿である。
 義統没後、若狭国守護となったものの、家臣の多くはもう元明に従わず、全く名目だけの存在であった。
 永禄十一年(一五六八)八月、越前朝倉氏の若狭進攻とともに、元明は越前へ拉致(保護)された。朝倉氏は義統との盟約で元明を保護したとも考えられるが、朝倉軍が守護館に迫ったさい、元明側は 一色氏ゆかりの誓願寺に防御線を敷き抵抗しており、守護館が制圧されてもさらに後瀬山城に逃れ、再度抵抗していることから、朝倉氏の行動は元明の保護ではなく、あくまで若狭を属国化するのため措置と考えるのが妥当であろう。

 元明が去った後は、若狭中心部は朝倉氏の支配に入ったが、被官人の一部は信長に通じ、元亀元年(一五七〇)四月、織田信長が朝倉氏攻撃のため若狭へ下向すると、多くの被官人はこれに従った。天正元年(一五七三)八月、義景滅亡後、若狭は丹羽長秀に与えられ た。
 元明も一乗谷から若狭へ帰国し、粟屋勝久らかつての被官人の嘆願により信長から赦免され、神宮寺に蟄居したとされる。
 しかし実際にはしばしば上洛するなど、かつての名門守護家の末裔として、力はないものの名ばかりとはいえ、若狭被官人を束ねる地位にあったと考えられる。
 天正九年、逸見昌経没後、彼の所領大飯郡のうち三千石を与えられた。

 天正十一年六月、本能寺の変で信長が殺された時、明智に加担し兵を起こし、丹羽長秀の佐和山城を攻め落とした。このため、明智滅亡の後、丹羽長秀に海津に呼び出され、七月十九日、自害を強いられた。
 法名は法雲寺殿文甫紹昌。ここに若狭武田氏は滅亡した。
 
   


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