越前若狭歴史回廊  分館
   
若狭武田氏歴代当主事績(四代〜五代)
 
四代
武田元信
康正元年〜
大永元年
 武田元信は若狭守護武田国信の次男、幼名彦次郎
 治部少輔、文亀元年正月従四位下、大膳大夫
 父国信は延徳二年小浜に下向したまま、当地で病没、家督を継承する。
 家督継承直後の延徳三年、将軍義材の近江出征に従軍、その後の明応の政変(細川氏による将軍義材廃嫡クーデター)では細川政元側についたものの、他の有力大名などと同様、義材への敬慕を棄てず、永年の盟友細川氏との間に隙を生じさせることもあったが、幕府や細川氏の信は厚かった。
 文亀二年九月幕府相伴衆
 しかし、領国経営は、幕府近侍したため出兵が重なり、苦しい状態で、文亀二年六月若狭で土一揆が勃発し、一族が討たれている。
 この不満の解消として、一色義有支配の丹後への侵攻を計画し、永正三年八月討ち入った。文明の大乱時の丹後侵攻は逸見軍が中心であったが、今回は粟屋軍が中心で、これに は丹後侵攻に深く係わっていた細川氏も加わった。戦いは長期化し、翌年には管領細川政元自身が軍を率いて若狭・丹後へ向かった。しかし、結果は武田軍 の敗北となった。
 しかし、従来武田氏の軍事力の大半を担った逸見氏からみると、粟屋氏の台頭は脅威であり、この後確執が生じることとなるが、一色氏側もこの後内紛状態とな る。永正十四年には今度は丹後軍が若狭に侵攻するも、武田氏は朝倉氏の支援のも と、丹後の一部を占領することに成功する。 
 武田元信はまた文芸面でも大いに活躍した。和歌、連歌、古典籍に通じ、当代一流の文化人であった三条西実隆、甘露寺親長、飛鳥井兄弟らと親交を重ねている。
 永正十六年十一月出家し紹壮と称した。
 没直前の応永元年十月には守護大名として異例の従三位にのぼった。
 同年十二月三日没、仏国寺殿大雄紹壮
 家督は次男の元光が継承した。
五代
武田元光
明応2年〜
天文20年
 武田元光は武田元信の次男。幼名は彦次カ。 伊豆守、大膳大夫に任じられた。
 永正十六年十一月父元信の出家で家督を継承し、若狭守護となる。
 この頃、若狭国内では丹後との緊張に加え、重臣間の軋轢も表面化しており、武田氏支配に陰りが見えてきた時代でもあった。このような情勢を反映して元光は後瀬山に堅固な城を築いて 、守護館も山麓に移した。尚、元光以降は武田氏は在国が常態化した。また、後瀬山城と守護館は、元光の後、若狭武田氏の滅亡までの居城となった。
 元光が守護職を継承した直後、京では細川高国が新将軍に義晴を擁立する時期で、元信と違って再び幕府と細川氏にべったりとなる。
 大永六年末、細川高国の要請により若狭より京に出兵し、翌年二月三好勝長・柳本賢治らの軍勢を桂川の東、西七条川勝寺付近で迎撃するも激戦の末大敗し高国、元光らは近江へ没落した。
 京での敗北は若狭にも波及し、結果、丹後の海賊に若狭の浦々を襲撃された。幸い国人層を中心とした団結で何とかこれを押し返した。
 治世後半は家督争いであった。天文四年、出家して子の信豊への家督継承を急ぐものの、弟信孝を擁立する勢力があり、特にこれまで元光軍の藩屏の役割を果たしていた粟屋元驍ェ離反し、天文七年には武田軍と戦闘を交えるに至る。また弟信孝も越前から若狭へ侵攻する気配を見せるも、元光は幕府を通し越前朝倉氏にその制止を要請、これを断念させている。
 天文八年十二月信豊が従五位下、伊豆守に任ぜられ、この時家督の継承がなされたと考えられる。
 天文二十年七月十日、五八才で没。法名発心寺殿天源宗勝。
   


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