越前若狭歴史回廊  分館
   
若狭武田氏歴代当主事績(初代〜三代)
 
初代
武田信栄
応永20年〜
永享12年
 永享十二年(1440)五月、一色義貫(義範)に替わって若狭守護となった武田信栄は、南北朝初期に甲斐武田氏から分かれた安芸武田氏信繁の子で、安芸武田氏は安芸中央部の分郡守護であった。しかしその家格は信栄が将軍義教の相伴衆に列するなど決して低くはなかった。
 しかし、若狭一国の守護拝領は、まぎれもなく一色義貫謀殺の論功であった。
 万人恐怖といわれた独裁者将軍義教は、有力守護家の抑圧をめざし、若狭や丹後の守護にある一色義貫牽制のため弟持信を偏愛し、将軍と一色氏間の緊張を増大させていたが、持信は永享六年四月死没。 しかし、将軍義教の一色義貫排除は変わらず、義貫とともに大和に出陣していた武田信栄に暗殺の密命が与えられた。
 永享十二年五月十五日、朝食に招かれた義貫は、その場で武田氏に襲われて自害したのである。翌日、京では教親が勘解由小路猪熊(堀川)にある一色邸を接収、丹後および伊勢の守護職 は持信の子である一色教親に認められ、同時に、若狭の守護は一色氏から武田氏へと替えられたのである。
 信栄は一色義貫を討って若狭守護職・尾張国知多郡を拝領すると、翌六月さっそく若狭に下向した。
 若狭は、大飯、遠敷、三方の三郡からなり、大きくはないが小浜港を抱え、日本海のみならず国外交易にも有利で、何よりも京に近く、経済のみならず政治面でも大きな魅力に満ちていたところであった。
 また、若狭武田氏が文芸面でも飛躍する契機ともなった。
 ところが、信栄は若狭入部直後の七月二十三日に病気で二八歳の若さで没してしまう。一説によれば、一色義貫との抗争で受けた傷が本であったとも言われている。法名長福寺殿天遊光芸。
  このため家督は次弟の信賢(二一歳)に継がれることとなる。
 
二代
武田信賢
応永27年〜
文明3年
 武田信賢は応永二七年(1420)、武田信繁の次男として生まれた。幼名彦太郎、文安四年に大膳大夫。永享十二年兄信栄と行動を共にして一色義貫を討つ。兄が若狭守護拝命直後に没したため、家督継承。
 信賢の家督相続から一年後の嘉吉元年(1441)六月、将軍義教が赤松満祐に殺害される嘉吉の乱がおき、信賢は赤松討伐のため主として安芸の軍勢を率いて播磨に出陣したが、若狭で一色氏の牢人が土一揆と結んで蜂起したため、急ぎ兵を播磨から若狭に回し、十月に大飯郡佐分郷、十一月に小浜をそれぞれ攻略した。
 当時の小浜には一色氏の拠点もあり、一色勢力の根強い残存が若狭の政情不安の根底にあった。
 このあとも享徳元年閏八月、同三年十二月、文正元年十一月にそれぞれ一色牢人が蜂起している。このうち享徳元年・同三年の蜂起は土一揆との連携によるもので、享徳三年には若狭に徳政令が発布されている。
 一方で、文安元年(1444)には、武田氏は国内寺社本所領代官職の知行を幕府から認められ、これによって半済に加えて本所方にまで支配権を及ぼすことが可能となり、武田氏の荘園支配は大きく進展することになる。
 応仁元年(1467)、京の大半を焼失させる応仁の乱が勃発する。武田氏は東軍(細川陣営)に属したが、五月に入ると各地の西軍(山名方)方分国で細川与党が行動をおこし、若狭では逆に山名方の一色氏牢人が蜂起する事態となっている。このため守護武田信賢は一旦下国してこれを放逐し、五月二十一日上洛している。
 戦いの火ぶたは、五月二十六日午前四時、東軍によって切られた。武田勢は西陣の大手南にあたる実相院に配され、西軍と正面から激突した。
 この乱で丹後守護一色義直は西軍に属したため、文明元年、丹後守護職が武田氏に与えられた。四月、武田信賢の部将逸見・粟屋らが、細川氏支援のもと丹後に討ち入った。丹後争奪戦はこの後若狭武田氏にとって大きな問題を残すことになるが、そのような 乱の最中、文明三年(1471)六月二日に信賢は五二歳で病没した。法名は大通寺殿大人宗武また光徳寺祐教教山。
 家督は弟国信が継いだ。
三代
武田国信
嘉吉2年〜
延徳2年
 武田国信は武田信繁の三男。幼名は彦太郎。治部少輔、大膳大夫に任じられた。
 文明三年(1471)若狭守護信賢没後、信賢の子が幼少であるため家督を継承し、若狭守護となる。兄同様常に細川氏とともにあり幕府に近侍した。
 応仁の乱では兄信賢とともに東軍(細川派)に属し、主に洛東方面に軍を展開した。文明二年六月三日 には、西軍の美濃国守護土岐成頼の上洛に対抗するため、如意岳に布陣したが、斎藤妙椿に攻められて撤退、東軍本陣に合流を余儀なくされた。そのような苦しい 戦いのなかでの兄の死であった。
 また、文明三年五月、西軍に属し仇敵ともいうべき朝倉孝景の東軍寝返りに際しては、幕府、細川氏の命でこれを援助している。
 文明六年四月、山名政豊・細川政元が講和を結ぶとこれに立会った。このため将軍義政から講和の一環として、西軍一色氏への丹後守護職返還が命じられると 、苦しい立場に追い込まれた。
 丹後に布陣していた武田氏最有力被官人逸見宗見らは、丹後返還を不満として一色勢と戦闘となるが、国信は援軍を送らず、結局、文明六年九月十五日宗見は自殺、武田軍は全滅した。
 国信の落胆は大きく、この時出家し、宗勲と号した。
 国信は文芸面でも秀でておりしばしば連歌や和歌の会を催している。
 将軍義尚の六角討伐に出征したのち、延徳元年若狭に下国し、翌年の六月二一日小浜で病没、四九歳であった。
 法名は玉華院殿功林宗勲。

 

   


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