越前若狭歴史回廊  分館
   
若狭武田氏とは(概略)

 若狭武田氏は、甲斐源氏武田氏と同族で、鎌倉政権発足時は甲斐守護であったが、承久の乱後に安芸の守護職も獲得、そして、元寇に際して初めて安芸に下国したとされる。

 南北朝期、武田信武は足利尊氏に従い、引き続き甲斐と安芸の守護職を確保、信武の嫡男信成は甲斐守護を次男氏信 は安芸守護を継ぎ、安芸武田氏の祖となる。

 ただし安芸守護職にあったのは応安三年(1370)ごろまでといわれ、信在、信繁時代は安芸中央部の三〜四郡のみ守護権を有する、分郡守護であった。
 しかし家格は決して低くはなく、初めて若狭守護となった信繁の子信栄は将軍義教の相伴衆に列していた。

 信栄は将軍足利義教の命によって永亨十二年五月、一色義貫を討伐し、その功により安芸分郡守護に加え、若狭の一国守護職を得たのである。 この時から武田氏による若狭支配がはじまる。
 翌六月、信栄は若狭に下向したが、病気となり、七月に二八歳の若さで死没し、家督は次弟の信賢が継いだ。一説によれば、一色義貫討伐の際の負傷が原因であったとも言われている。

 家督を継いだ信賢は、若狭の経営にあたり、若狭武田氏の基礎を築く。前半は嘉吉の乱後の徳政一揆や若狭国内での一色牢人の蜂起など困難に立ち向かい、応仁の乱では東軍に属し 、越前軍と交戦、西軍に属した一色氏の丹後守護職も与えられ丹後へ進攻する。信賢の時代はまた、京での文芸活動も活発化し、多くの文化人との交流が生まれた時代でもあった。家督は信賢の弟国信が継 いだが、応仁の乱の後始末で重臣逸見氏と隙が生じるなか、京での活動は更に活発化させた。
 
 国信の子、元信の時代に若狭武田氏は最盛期を迎える 。文芸面では被官人も含めその活動は一層活発化し、朝廷・幕府に対し近侍し、異例の従三位にまで昇る。
 しかし、若狭国内では土一揆の蜂起に、細川氏と連携した丹後に出兵では、逆に丹後勢の若狭への侵入に合い、越前朝倉氏の救援で撃退するなど、支配に陰りが見えてき た時代でもあった。

 その子元光の時代には、このような情勢を反映して後瀬山に堅固な城を築いて 西津守護所や青井山から移った。
 後瀬山城は、元光の後、信豊−信統−元明と若狭武田氏の滅亡までの居城となる。

 
 しかし、信豊の頃になると丹後の海賊の侵入、さらに信豊・信統父子の家督争いに加え有力被官人も相次いで反乱を起こすなど、さらに弱体化した。
 最後の当主元明のときには、もはや「浪人ノ如クニシテ」という状況であった。
 永禄十一年(1568)、朝倉氏は若狭へ侵入し、元明を拉致(保護)し、一乗谷へ連れ去った。これによって実質的に武田氏の若狭支配は終わりを告げた。

 元明は朝倉氏滅亡後、若狭に戻ったが、天正十年の本能寺の変に際して、明智光秀に与したため、丹羽長秀によって近江海津で自刃を強いられ、若狭武田氏は歴史から消えた。
 なお元明の室は、京極高次の妹(竜子)で、元明の死後秀吉の側室になった松丸殿である。

 その後の武田一族の消息は若狭では不明となるが、京都建仁寺長老英甫永雄(えいほようゆう)の仲介で細川氏を頼り、熊本に移ったと考えられる。
 

   


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