越前若狭歴史回廊 分館 | ||
若狭武田氏とは(概略) 若狭武田氏は、甲斐源氏武田氏と同族で、鎌倉政権発足時は甲斐守護であったが、承久の乱後に安芸の守護職も獲得、そして、元寇に際して初めて安芸に下国したとされる。 南北朝期、武田信武は足利尊氏に従い、引き続き甲斐と安芸の守護職を確保、信武の嫡男信成は甲斐守護を次男氏信 は安芸守護を継ぎ、安芸武田氏の祖となる。
ただし安芸守護職にあったのは応安三年(1370)ごろまでといわれ、信在、信繁時代は安芸中央部の三〜四郡のみ守護権を有する、分郡守護であった。
信栄は将軍足利義教の命によって永亨十二年五月、一色義貫を討伐し、その功により安芸分郡守護に加え、若狭の一国守護職を得たのである。
この時から武田氏による若狭支配がはじまる。
家督を継いだ信賢は、若狭の経営にあたり、若狭武田氏の基礎を築く。前半は嘉吉の乱後の徳政一揆や若狭国内での一色牢人の蜂起など困難に立ち向かい、応仁の乱では東軍に属し
、越前軍と交戦、西軍に属した一色氏の丹後守護職も与えられ丹後へ進攻する。信賢の時代はまた、京での文芸活動も活発化し、多くの文化人との交流が生まれた時代でもあった。家督は信賢の弟国信が継
いだが、応仁の乱の後始末で重臣逸見氏と隙が生じるなか、京での活動は更に活発化させた。
その後の武田一族の消息は若狭では不明となるが、京都建仁寺長老英甫永雄(えいほようゆう)の仲介で細川氏を頼り、熊本に移ったと考えられる。 |
||