現在掲示板は閉鎖しております。ここでは開設時より2005年12月の閉鎖までを掲載しています。なお再開は未定ですので、ご了解下さい

50 お知らせ 管理人 - 2005/12/15 21:04 -
私事で大変恐縮ですが、私の仕事の都合により来年10月まで当サイトの更新を停止させて頂くことになりました。
ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。
本館「越前若狭歴史回廊」は月1回の更新を行いたいと思います。
なお、掲示板は情報交換のために閉鎖は致しません。(管理人からの回答は10月まで休止となります)
私あてのメールは常に読んでおりますので、何かあれば、ご連絡下さい。



49 なるほど とむそん - 2005/06/23 23:12 -
わざわざの御教授痛み入ります。確かに、海路のつながりならあるでしょうね。実際の若狭武田家自体は滅亡ですから、旧家臣団か、枝分かれの一族とかなら一人や二人いてもおかしくないですね。



48 松前氏 管理人 - 2005/06/22 21:48 -
とむそんさんはじめまして。
ごあいさつが遅れて申し訳ありません。
松前氏は若狭武田氏の武田信広が蠣崎に養子に入って、後、改姓したとされますが、これは武田側から主張したものではありません。江戸中期(明和年間)に松前藩士が小浜に来て、信広のことを調査してまわり、それから若狭でも武田信広のことを知った次第です。
その後、松前と小浜でやりとりがありましたが、決着しないままに今日に至っています(武田氏の系図にはありません)。
ただ、小浜と蝦夷地はかなり前から交流があり、若狭の人の移住も少なくなかったと考えられます。若狭と何らかの関係があったことは推測されます。




47 そういえば とむそん - 2005/06/17 00:57 -
松前氏は、前は蠣崎とかでしたよね?



46 こちらにもお邪魔しました とむそん - 2005/06/17 00:54 -
若狭武田家は、蝦夷の松前家が、子孫だと言い張っていた記憶があるのですが、実際可能性はあるのでしょうか?



45 20,000ヒット達成御礼 管理人 - 2005/02/27 19:56 -
このところ、本館や朝倉氏に比較して更新が遅れ気味ですが、20,000ヒットを達成できました。
あまりメジャーでない若狭武田氏ですので、アクセス数はあまり期待していなかったのですが、当初の予想よりかはかなりいい数字だと思っています。
今後ともよろしくお願いします。



44 Re:大江山 管理人 - 2004/11/23 22:58 -
通りすがりさん、度々のお立ち寄り有難うございます。
筆がすべったわけではないのでご安心下さい。
御伽草子の「酒呑童子」で有名な大江山は丹後にあります。
ここでの大江山は山城と丹波の境のことです。明智光秀の老ノ坂のある山で、現在も大枝(おおえ)山と呼んでいるはずです。ここは中世には様々は間道が通っておりました。
守護代内藤備前守は嵯峨に攻め込んでおりますので、老ノ坂よりも北のルートを通ったと考えられます。
なお、この大江山にも酒呑童子の首塚が残っていますが、これは丹後から運んできたきた首が、急に重く動かなくなったので、埋めたとの伝承に基づくものです。
近くには大枝(おおえ)神社などもあります。
丹後のそれとは別物とお考え下さい。



43 大江山 通りすがり - 2004/11/20 22:41 -
通りすがりです。
先般は細川政国でお世話になりました。
有難うございました。
青学生さんとの問答でも管理人さんの京都の豊富な知識が良くわかります。
でもどうしても納得のいかない点が一点あります。
応仁の乱と若狭武田氏の奮闘(其の四)の船岡山の戦いで以下のように書いておられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
応仁二年九月三日、東軍の丹波守護代内藤備前守(勝元の被官人)が丹波国の軍勢を催して、同六日大江山を越えて嵯峨に攻め込んだ。このため西軍の斯波義廉や大内政弘、畠山義就が防戦のために嵯峨に向かったが、その虚を衝いて、東軍は大内軍の本陣船岡山を攻撃した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
多分、筆が滑ったのだと思うのですが、大江山は「酒呑童子」でも有名で、丹後宮津市の南から連なる山々で、嵯峨野に攻め込むのに大江山はない、と思うのですが?
どうでしょう。



42 ようこそ河内谷さん、府中人さんおひさしぶりです 管理人 - 2004/10/16 21:19 -
ようこそ河内谷さん、はじめまして
野木は古代から開けていたところで、様々な伝承が残っていると思います。
一色氏時代の中世の国人一揆「玉置の合戦」でも重要な役割を担っていますね。
武田氏時代に係わる伝承も多いと思われますので、またお越しいただいて伝承などをご披露下さい。
府中人さん、おひさしぶりです。
次の企画は「丹後争奪」ですが、今のところ時期は未定です。秋は朝倉氏関係の加賀出兵を準備中です。



40 応仁の乱完結おめでとうございます 府中人 - 2004/10/03 23:43 -
若狭武田氏と応仁の乱完結おめでとうございます。
最後はお墓のオンパレードでしたね。
将軍義政や山名宗全の墓はそれなりに見ますが
勝元の墓や日野富子の墓は殆どありませんね。
何時写されたのですか?
さて、次の企画が楽しみです



39 廬山寺の位置 管理人 - 2004/09/26 14:49 -
青学生さんこんにちは。
東軍が、南部戦線(細川勝久邸攻防戦)で、戦い疲れた斯波義廉勢を廬山寺の西まで追い立てたのは事実だと思います。私もそのように書いておきました。
問題は、福井県史通史第2巻(中世)の615Pの地図のことですね。そこでは廬山寺が船岡山の南に書かれていますね。
県史の通りとしますと、東軍は、斯波軍(甲斐氏、朝倉氏)を追って、なんと西軍の本陣を突破り、さらには、北部戦線(花開院)で対峙している東西両軍も突き破って廬山寺(船岡山南)まで追い立てたということになりますね。
そんなこと、常識で考えてもありえませんね。
もちろん県史の地図が間違っていると思います。この時期廬山寺はどこにあったのか、よく確かないで、または他の資料をそのまま写して書かれたのだと思います。
廬山寺は他の寺院同様、焼失と再建を繰り返し、現在は寺町通り沿いにありますが、この時は、西軍本陣の南で、細川勝久邸の北の猪熊通り沿いにありました。
まあ、通り一つ隔てた北側にあったと思っていただければ結構です。
船岡山の南は、寛元3年後嵯峨天皇の勅で移転再建された時の場所ですね。もうこの時期には無かったのです。その場所は今でも廬山寺通りとして名前だけは残っています。



38 「福井県史」の廬山寺 青学生 - 2004/09/23 00:12 -
ご無沙汰しています。出雲路では有難うございました。
応仁の乱その後も読んで勉強しています。
管理人さんの博識に感心しています。
京都に詳しい管理人さんにもう一点教えて欲しいのですが
最初の戦いで、西軍に属した朝倉・甲斐ら斯波義廉勢は、細川勝久邸の攻撃にあたり、
最初は優勢だったものの翌日赤松勢が救援にかけつけると、
戦い疲れた斯波義廉勢は廬山寺の西まで追い立てられたと
「応仁記」や「福井県史」にあります。
管理人さんも同趣旨で書かれています。
で問題は、その廬山寺です。
福井県史の地図を見ますとずいぶん北にありますが、
そんなところまで追い立てられたのかということです。
下で議論されている細川持賢ではないですが、
「福井県史」のこの地図は正しいのでしょうか?



37 Re:武田元明の最後 管理人 - 2004/09/15 23:31 -
はじめましてBANさん、ようこそお越し頂きました
水上先生の本はその他若狭や一乗谷を題材にしたものが多数あり、私も好きな作家の一人です。
「湖笛」も、元明に男子があったとの伝承をもとに書かれた大変な力作で、私もかつて読ませて頂きました。
しかし、書かれている内容は先生の創作で、史実とは考えられません。
まだ秀吉は丹羽長秀に命令できる立場にありませんし、長秀は自分の居城を元明に落とされたため、面子上自刃を強いたのだと思います。
ただ、作品はロマンをかんじさせる先生の代表作に一つだと思っています。
今後ともよろしくお願いします。



36 武田元明の最期 BAN - 2004/09/15 16:01 -
偶然素晴らしい「若狭武田氏サイト」にたどり着くことができました。とても参考になり感謝です。ところで武田元明の最期について、先日亡くなった水上勉氏の長編小説「湖笛」では、呼び出して自害を命じたのは丹羽長秀ではなく羽柴秀吉となっていました。小説ですから創作とも思えますが史実はどうなのでしょう?詳しく記した史料が残っているのでしょうか? 因みにこの作品は若狭武田氏の最期、遺児たちの運命、京極氏の復活などを正面から描いて力作だと思いました。



35 Re:細川持賢? 政国? 管理人 - 2004/09/12 22:07 -
通りすがりさん、こんにちは
確か、朝倉氏サイトの掲示板にも一度お越し頂いたと記憶しております。
 「応仁の乱と若狭武田氏の奮闘」を熱心にお読み頂き有難うございます
さて、若狭武田氏が丹後守護職を得たとき、一郡は細川氏に与えられました。ご質問の趣旨はこの細川氏とは一体誰れのことかということですね。
 「福井県史」は「応仁記」の記述のままこれを細川典厩持賢としております。細川典厩持賢は勝元の後見人として細川一族の重鎮でしたが、応仁2年10月に病没しております。典厩家の跡をついだのが養子の政国(持春の子)です。したがって丹後に分郡守護に任じられたのは細川典厩家ですが、その時の当主は政国に間違いありません。
 この問題は、武田氏や細川氏に守護職が与えられたのは何時かとも係わる問題でもあります。応仁2年7月の時期と解すれば持賢でもいのですが、摂津之親に与えたのが12月であり、従ってそれ以降と解し、進攻した文明元年4月とするのが妥当でしょう。
そうであれば持賢は誤りです。
 さてこの背景について、あまり細かくなるので本文ではぼかして書いていますが、背景には摂津での東軍、西軍の攻防戦があります。この攻防戦の内容をここで記すことはできませんが、細川典厩家の分国が西軍に奪われたことも、その要因になっていると見て間違いないでしょう。
それでは、また



34 細川持賢? 政国? 通りすがり - 2004/09/11 14:04 -
通りすがりです。
応仁の乱と若狭武田氏のコンテンツは非常に詳細で、大変参考になっています。
ところで、若狭武田氏が丹後守護職を得たとき、一郡は細川氏にあたえられたわけですが、この細川氏は他の本では細川持賢となっています。福井県史もそうなっていますね。
管理人さんは政国としていますが、これは何か理由があってのことでしょうか。




33 Re:質問です 管理人 - 2004/08/19 22:33 -
剣太郎さん、はじめまして。
江戸期については、武田さんからコメント頂いておりますが、いわば現代の「職員録」みたいなものがあり、大抵のことは調査は「可能」と思われます。但し、武田さんも書かれたおられるとおり、一般人の閲覧はかなり難しいと思います。(「隠匿」状態)
戦国期となると殆どわかりませんが、戦に関しては、地方で「軍記物」が残っているケースがあります。若狭武田氏でいえば「国吉城篭城記」みたいな史料です。これですと、戦に出た土豪、地侍クラスまで記されているケースがあると思います。
一説では各地で1,000ぐらいあるのではないかともいわれています。
これらを網羅したサイトは残念ながら無いと思います。



32 関係なさそうです もこ - 2004/08/18 08:56 -
安芸の粟屋郷は武田家の粟屋氏とは関係なさそうです。粟が多く取れたので粟屋と名づけられたとありました。11世紀から藤原氏の荘園で、後に藤原姓の三吉氏(大内方→毛利方)が領主となったようです。とんだ早とちりでした。三次市の高杉の祝氏が武田家と関係ありそうです。とすると、例の高杉晋作なども武田家の血が流れているのかな、なんて想像しています。



30 剣太郎 様 武田 - 2004/08/17 10:20 -
ご参考になるか分かりませんが・・
私も足軽等について調べようとした事あるのですが、江戸幕藩時代の物でもその地方の歴史資料館的な所に古文書として一部残っている事等が多いと思いますが余程でない限り閲覧は難しいと思われます。
因みにもし調べる事が出来れば藩によって多少の違いは有るでしょうが分限帳・給人席順・無足諸氏略系・・等の資料からくみ取れる可能性はあると思います。(私の場合ですが無足諸氏略系は歴史資料館ではなく旧藩主のご子孫が保存されていました。)
若狭武田氏については管理人様からご回答があると思いますが、地方差は有ると思いますが江戸期の場合以上の様な作業が私の場合必要でした。
それとは別に・・江戸期であればある程度の位の家臣については新人物往来社から出ている三百藩家臣人名辞典に分かりやすく載っています。



29 ありがとうございました。 武田 - 2004/08/17 09:51 -
管理人様お忙しい中ご返答ありがとうございました。
そうですね歴史のロマンですね、またロマンになってしまうのですが竜子の子と言われている長哨子(哨の字が変換出来ませんでした)のご子孫が播磨に住んでおられると言う記事を過去見た事がありました。
色々調べる手は有るのでしょうが素人・学術でない個人の興味である等壁は高いと思いますがゆっくり調べてみようと思います。

また楽しみにこちらのページ拝見させて頂きます。
ありがとうございました。






28 Re:京極家と武田氏についてお伺いしたいのですが・・ 管理人 - 2004/08/06 07:38 -
はじめまして武田さん、ようこそお越し頂きました。
 本能寺の変の際、武田元明は丹羽長秀の佐和山城を、京極高次が秀吉の長浜城を攻撃し、落とし、光秀滅亡後京極氏は若狭へ逃れますが、元明が長秀に呼び出され自刃を強いられ、武田家は断絶、若狭被官人もこの時解体され、それぞれの道を歩んだと思われます。京極氏はこの時逃げ回っている浪人ですから、若狭被官人が京極氏を頼ることは無かったと思われます。武田一族も信方系など庶流は鞆幕府に出仕しています。
 その後京極氏は天正18年、近江で2万8000石、次いで文禄4年に6万石に転じ、名族の復興を成し遂げますが、天正10年の本能寺の変からこの期間雌伏して仕官するとなると、よほど元明に近かった一族や被官人以外無いと考えるのが妥当でしょう。
 ところで、伝承によれば、元明には京極竜子との間に二人の男子と女子1名があったとされていますが、その消息は不明です(女子は死亡、男子は謀殺されたとの伝承があります)。仮定の話ですが、もし伝承どおり男子があり、側近に守られて雌伏したとすれば、頼るとこは京極氏しかなかったと思われますし、そうであれば母である竜子も当然半分は隠密裏に、半分は公然と動いたと思います。何れにしても歴史ロマンの世界の話ですね。
 ただ、元明の側近たちが長い忍耐の末、あるいは一時的に仕官しても最終的に京極氏を頼ったことは十分ありえますね。残念ながら若狭側にはそれらの史料はありません、京極側で調査頂くしかないと思います。



27 質問です 剣太郎 - 2004/08/05 10:54 -
お初にお目にかかります。最近戦国武将ではなく足軽などのもう少し階級の低い人たちの名前を調べているのですがどうしても見つかりません・・・・・。どこかに当時の参戦者の名簿等が乗ってるサイトさんはないでしょうか?教えていただけたらうれしいです。



26 京極家と武田氏についてお伺いしたいのですが・・ 武田 - 2004/07/31 02:28 -
初めまして、武田と申します。
図々しい質問で恐縮なのですが・・・
言い伝えでは曾祖父が播磨龍野藩へ仕えていたらしいのですが(大昔の除籍謄本で士族にはなっているのですが・・)
少し離れた小さな漁港近くは讃岐丸亀の京極藩飛地で陣屋もあったみたいです。
曾祖父は明治30年代に神戸に移住していて、龍野城のすぐ下の京極家が龍野に20年間移封になっていた時に建てた寺に亡くなった自分の兄の供養をお願いして出てきています。先代ご住職のお話では江戸時代は武士か屋号を持った方しか祭られてはいないとの事です。(お寺の過去帳は明治後期に大部分焼失されたとの事で詳しい事は不明です。)
前置きが長くなりましたが京極高次、竜子の兄妹関係で武田氏ゆかりの者が京極家に付き従ったと言う可能性も有るのでしょうか?
少しでも手がかりが掴めればと思い投稿しました。
不適切な表現御座いましたら削除願います。




25 佐伯区在住です もこ - 2004/06/24 22:04 -
市内在住です。新羅神社など武田家にゆかりの史跡も残っているようですが、私もまだまだです。まずは三次市役所で紹介していただいた三次市史を読んでみようと思います。粟屋氏に関する記述も少しあるとのことです。武田ゆかりの地、安佐南区は隣区で同区祇園は家から車で20分位の場所です。恥ずかしながらすべてこれからです。こちらこそよろしくお願いいたします。



24 もこさんはじめまして 管理人 - 2004/06/21 13:56 -
もこさんはじめまして、若狭武田氏サイトにようこそお越し頂きました。安芸武田氏の最後については私も関心があり、一度現地調査に訪れたいと思っております。
ところで、もこさんのお住まいは安芸に近いのでしょうか。
差し支えなければご披露頂ければと思います。
今後ともよろしくお願いします。



23 安芸の武田氏 もこ - 2004/06/18 21:17 -
はじめまして。安芸の武田氏に興味をもつ者です。
よろしくお願いいたします。




22 おめでとうございます 府中人@勉強中 - 2004/05/16 23:13 -
10,000ヒット達成おめでとうございます。
管理人さんの守備範囲の広さに脱帽です。
朝倉氏と武田氏の交差点に期待しています。




21 10,000アクセスを突破しました 管理人 - 2004/05/14 20:41 -
本サイトも昨日10,000アクセスに達しました。
若狭武田氏というマイナーなサイトを分館として開設した時にはアクセスはあまり期待できないと考えていたのですが、予想に反して「本館」なみの9ヶ月で達成できました。
今後ともよろしくお願いします。



20 Re:熊本に渡った武田氏 管理人 - 2004/04/29 21:29 -
武田さんようこそお越し頂きました。残念ながら私もまだ熊本の武田氏については全く手つかずの状態です。
お答えにはなりませんが、それからの若狭武田氏について、全くの独断ですが以下のように推理しています。

朝倉氏の滅亡で武田氏当主元明は一乗谷から帰還し、神宮寺に蟄居し、反信長の旗頭であった武田信方も信長服します。
元明は本能寺の変に際して、光秀に荷担し後自害に追い込まれますが、信方がこの当時どうしていたのか資料が残っていません。
元明とともに若狭にとどまった一族もいましたが、他の一族は信方をはじめ将軍義昭が鞆に開いた最後の足利幕府「鞆幕府」に出仕したもののと個人的には考えています。もともと幕府と関係が深い若狭武田氏ですし、信長によって京を追放されたとはいえ、将軍義昭は依然として五山をはじめ京への影響力を持っており、京建仁寺長老英甫永雄(若狭武田氏、細川幽斎甥)と義昭との関係も浅からぬものがあったと考えられます。
鞆には滅亡した安芸の武田一族(安国寺恵瓊もそう)も合流し、幕府奉行人などを努めていました。ただ鞆幕府は、信長支配地以外の西国や東北の大名の支持のもと相当にぎわったとも言われていますが、その陣容の詳細は不明です。
小浜仏国寺の武田氏系図によれば、信方は永禄年中備後の鞆に住し、天正十四年に死去したとあります。永禄年中というのは明らかに誤りですが、鞆で没したという伝承が若狭に残っていることは留意すべきだと思います。
甲斐武田氏滅亡時に若狭武田氏(信方)が逃れてきていいて一緒に殺害されたと書かれた資料がありますが、若狭武田氏が甲斐武田氏を頼ることはこの時代もう無いと考えます。事実であれば、それは将軍義昭の使者として一族の者が甲斐に赴任していたということでしょう。
鞆幕府は、二重権力を嫌う関白秀吉の強い要請で、義昭の将軍辞職(出家)、京への帰還で幕を閉じ、武田氏一族はその後細川氏に士官したと考えられます。当然英甫永雄の仲介でしょう。
ただ熊本の武田氏の調査は私自身は全く行っておりませんので、これについては熊本での調査結果に期待しているところです。
幸い、熊本の津々堂さんがこの掲示板の10番に書き込まれておりますので、そちらを参照してください
--------------------------
>ご無沙汰しております「肥後細川藩拾遺」の津々堂です。「若狭武田氏」も益々充実の度を増し楽しませていただいております。
>先にご教示いただきました細川家に来られた、武田氏元家臣のその後をいろいろ調べております。結構な数の人を確認できました。整理がつきましたらご報告したいと思っています。
--------------------------
「肥後細川藩拾遺」は http://bundlenet.com/~shinshin/index.htm です

お答えにもならずダラダラと書きましたが、武田さんの元に何か資料が残っているようでしたら是非ご教示下さい。



19 熊本に渡った武田氏 武田 - 2004/04/28 14:44 -
武田と申します。
曾祖父が細川藩士で、いったいどこから渡ってきたのやら、
と思っていたのですが、若狭武田氏の一族が熊本に渡った
可能性があることをこのサイトで目にし、もしや…と思っています。

まあ細川藩にも武田家は何家かあるでしょうし、本当に若狭武田氏の
末裔の家もあれば、家系を僭称している家もあるでしょうから、
我が家がどちらであるかはよくわかりませんが(^^;

もし、熊本に渡って引き続き武田を名乗っていた家が
明らかになっているようであれば、お教えいただければ幸いです。



18 ようこそ若狭武田氏へ 管理人 - 2004/03/02 00:01 -
青学生さん、お久しぶりです。
朝倉氏に引き続き「若狭武田氏」へようこそ
今後ともご贔屓にお願いします。

>臨場感が違う
と大変な賞賛を頂き恐縮です。
出雲路に退却として「出雲路」や近辺の写真掲載も可能だったのですが、そこが戦闘現場になったわけでもないので省略しました。

府中人さん、ご無沙汰です。
「応仁の乱」はこの後もつづきますので、引き続きよろしくお願いします。





17 ↓呼び捨てになりました。ごめんなさい 青学生 - 2004/02/28 23:54 -
府中人さんごめんなさい
下のカキコで呼び捨て表現になりました。
申し訳ありません



16 こちらでははじめてです 青学生 - 2004/02/28 23:51 -
福井市出身の青学生です
朝倉氏ではお世話になりました。
今「応仁記」の口語訳を読んでいます。
それで、こちらのサイトにもお邪魔しました。
福井県史もあわせて読んでいますが、こちらのサイト
臨場感が違いますね。
実は「応仁記」に、相国寺合戦の時、若狭武田氏が
出雲路に退却したと書かれていますが
それがどこなのか、他の参考書にも書かれおらずわからないままでした。
「福井県史」も「応仁記」の真似をして書いているだけで
どこまでわかって書いているのか不明です。
無理に出雲方面に通じる道かと思っていましたが
こちらでは相国寺の北東の出雲路に退却と明瞭に書かれています。
京都の地図を引っ張りだしてそのあたりを調べましたら
載っていました。
府中人もかかれてますが、管理人さんは
本当に京都に詳しいですね。
これからも時々こちらにもお邪魔します



15 おひさしぶりです 府中人 - 2004/02/23 22:30 -
おひさしぶりです。
本館の「越前若狭歴史回廊」が更新できないとのことで
若狭武田氏のサイトじっくり読んでいます。
あまりなじみがなかったですが、概略はつかめました。
それにしても管理人さん、京都に詳しいですね。
「応仁の乱」の写真を見ていてつくづくそう思いました。
今後の展開も楽しみです



14 Re:内藤下総守について 管理人 - 2004/01/20 21:53 -
はじめまして、内藤昭男さま。
このサイトを開設してから、これまで若狭の武田氏被官の元城主のご子孫にあたる2、3の方かからメールを頂戴しています。
内藤さんは、湯谷山城主内藤下総守のご子孫とのことで、是非家伝を調査されてご教示下さい。
内藤氏は若狭武田氏の重臣で代々守護代や重職を務めた一族で、筑前守が惣領家ということはわかっていますが、あまり詳しい情報はありません。下総守と惣領家との関係も不明ですが、一族あげて重職についていたことは間違いないと思います。
湯谷山城は今も若狭姫神社南西に城跡が残っています。何れ「本館・越前若狭歴史回廊/新越前若狭城跡考」でとりあげさせて頂きたいと思っております。
今後ともよろしくお願いします。



13 内藤下総守について 内藤昭男 - 2004/01/20 18:59 -
初めて、メールさせて頂きます。
私は京都府福知山市に住んでいます。私の曽祖父は明治時代に小浜から
京都市に出て商売を始めたしたようですが、若くして曽祖父夫婦は亡くなり、祖父は福知山市で洋服仕立商に弟子入りして、昭和の始めには洋服仕立商を開業しています。その祖父の話では、当家は戦国期に遠敷
湯谷山城主であった内藤下総守の末裔であると聞かされていました。
子供の頃のことなので忘れていたのですが、図書館にて「福井県の地名」を偶然見ていたところ、「内藤下総守」の名を見つけてました。
若狭の項には若狭武田氏の戦国期の被官人として、下総守だけでなく、
同姓の内藤筑前、内藤兵庫などの名も見られました。私は亡くなった祖父への思い出もあり、いろいろと調べることにしました。今から五・六年前の話です。
また、メールします。





12 Re:武田信高 津々堂 - 2003/12/26 14:17 -
ご丁寧なレスを頂戴しありがとうございました。
早速当方サイトに反映させていただきます。
またお邪魔いたします。



11 武田信高 管理人 - 2003/12/25 22:15 -
津々堂さん、わざわざ武田氏のサイトへのお越し有難うございます。
かなりの数になるかも知れませんが、意外と若狭武田氏の一族が滅亡後細川氏を頼ったことは郷土史関係図書でも知られておらず(多分当サイトぐらい、尤も若狭武田氏を専門に扱うサイトは他にないですが)、是非ご報告をよろしくお願いします。
信高ですが、はじめ元度(もとのり)と名乗り、そのご、信重、信高を名乗ったとされるもの確証はありません。また一時信當を名乗ったこともあったとされています。ただ若狭では残っている安堵判物から「信高」を通常使用しています。
官名についても「宮内少輔」「中務少輔」の説がありますが、これは「中務少輔」であった信孝と発音がおなじであったため誤伝したものと考えれております。宮内少輔については神宮寺日記に記録があります。
従いまして記録や菩提寺龍泉寺記録からみましても、「宮内少輔信高」が私は一番適切と考えています。
また信豊の兄弟ですが、これはいろいろ系図もあるのでしょうが、確実なところ信豊、信高に加え信実(安芸へ養子)と考えるのが妥当だと思います。
また何かわかりましたらお知らせします。
それではまた。



10 細川藤孝姉・宮川殿 津々堂 - 2003/12/20 00:49 -
ご無沙汰しております「肥後細川藩拾遺」の津々堂です。「若狭武田氏」も益々充実の度を増し楽しませていただいております。
先にご教示いただきました細川家に来られた、武田氏元家臣のその後をいろいろ調べております。結構な数の人を確認できました。整理がつきましたらご報告したいと思っています。
今日は細川藤孝の姉君宮川殿の婿殿についてご教示頂きたく参上いたしました。信高公がその人であると承知いたしておりますが、細川家の資料を見ますと、すべて「宮内少輔信重」としております。
細川家正史「綿考輯録」や細川護貞氏著「細川幽斎」等においても同様に扱われています。信高公が「信重」を名乗られたことがあったのでしょうか。ちなみに播磨屋さんの「武家家伝-若狭武田氏」を覗きましたところ信豊公の弟として、信重・盛信・元之なる人の名前が登場して居りました。

http://www.geocities.jp/shin_shindoh/index/htm

9 応援有難うございます 管理人 - 2003/11/05 11:45 -
府中人さん、いつもながら応援有難うございます。
たしかに、若狭武田氏となりますと、ちょっとオタク的感じはしますね。
ただアクセスは、まあまあと思っています。
別に武田氏に拘らず若狭の話題でもいいのですが、そうは言っても難しいですね。
掲示板だけ本館に統合するか、もう少し様子を見て考えさせて下さい。
それではまた。



8 応仁の乱凄すぎ 府中人@応援団 - 2003/11/02 21:26 -
本館や分館の朝倉氏に較べると
こちらの掲示板はカキコが少ないですね。
若狭武田氏で書き込むには相等な勇気がいりますね。
それにしても「応仁の乱」力が入ってますね。
その1だけでも、今までにないほど力入ってますね。
写真凄すぎ、他のサイト見てみましたがこんなの
ないです。
続編に期待します。



7 少しイメージがつかめました 府中人@勉強中 - 2003/10/05 23:40 -
管理人さん、こちらのサイトではおひさしぶりです。
若狭武田氏は全然わかりませんでしたが、
武田元明関係のコンテンツを読んで
少しづつ興味がわいてきました。
朝倉氏と武田氏の関係の記事に期待しています。
それにしても順調なアクセス件数ですね。
朝倉氏のときよりもいいみたいですね



6 ようこそお越し頂きました 管理人 - 2003/08/28 17:05 -
すかさん、ようこそお越し頂きました。
若狭ご出身とのことで、子供の頃の若狭の風景でもまた書き込み頂ければと思います。
今後とも、よろしくお願いします。



5 こんにちわ すか - 2003/08/26 21:38 -
はじめまして。
若狭高浜出身の者です。
興味深く楽しませていただきました。


http://www.ne.jp/asahi/sukankin/family/

4 Re:まちわびておりました、Re:おめでとうございます 管理人 - 2003/08/26 19:14 -
畠山さん、府中人さん、わざわざ掲示板までお越し頂き有難うございます。
若狭武田氏氏の開設がのびのびになってすみません。ようやく開設できました。
畠山さん、LINKの件よろしくお願いします。

スタートは、自分でも滿足のいく内容ではないですが、これから国人層との抗争、家督争い、被官人逸見氏・粟屋氏との確執など内容の充実を図りたいと思います。
資料は私の場合、年表中心です。年表をみながらあれこれ思いをめぐらし、現地に行って地元の話を聞いたり(空振りが多い)、寺に上がり込んで話し込み、イメージをつかみます。
大体考えがまとまったら、そのことについて触れた文献・資料を漁って、すり合わせを行います。もちろん、合わせきれないケースもありますね。
ただ、斯波氏や朝倉氏はそれでよかったのですが、武田氏の場合はイメージがまとまりにくいです。正攻法で資料や文献の調査からすすめようかなーと思っています。
まとまれば(まとめるほど無い?)、斯波氏文献
http://okhome.fc2web.com/siba/siryou.html
のように、掲示させて頂きます。
今後とも、よろしくお願いします。



3 おめでとうございます 府中人 - 2003/08/25 23:41 -
二つ目の分館「若狭武田氏」開設おめでとうございます。
ちょっとパソコンの調子が悪くてここ1週間インターネット
できなかったのですが
その間に開設されていたとは!
実は斯波氏や朝倉氏でもついていくのが大変だったので
武田氏はどこまで管理人さんについていけるか
心配ですが、朝倉氏でも書きましたが
あまり専門的にならないように
一般読者の視点をわすれないようにお願いします。
でも若狭武田氏の本、図書館でみても無いですね。
斯波氏の時も不思議でしたが、いったいどこでそんなこと
調べるのですか?



2 投稿者により削除


1 (8月20日)開設しました 管理人 - 2003/08/20 22:57 -
越前若狭歴史回廊の朝倉氏に続く二つめに分館として「若狭武田氏」開設しました。
この掲示板を利用して中世若狭を支配した武田氏についていろいろ意見交換できればと思っています。

なお、リンクや誤字・脱字の初期「虫とり」についてはMAILでも当掲示板でも構いませんのでよろしくお願いします。


 

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