越前若狭歴史回廊  分館
   

 
国吉城攻防戦

*本稿は「戦国大名越前朝倉氏」に掲載した「朝倉氏の若狭武田氏支援と若狭攻防戦」を再掲したものです。
(写真は一部を除き差替えております)
「戦国大名越前朝倉氏」サイトはここ
 

     
   

朝倉氏の若狭進攻と若狭攻防戦(3/完)

武田義統の死と若狭攻撃の転換

 そのような中、翌永禄10年4月若狭守護武田義統は32才という若さで死去する。
 このことが国吉城をめぐる攻防を新たな局面に入らせることとなる。
 これまで越前勢は、立場上はあくまで若狭守護武田氏の依頼で、守護支配に従わない粟屋氏などへの懲罰として攻撃を行ってきたのであった。しかし守護義統の死後、跡をついだ嫡男元明は幼少であり、もはや武田氏の領国統率力は無きに等しいものとなり、若狭は混乱状態になっていたのである。ここに至って朝倉氏は若狭支援から若狭の支配、属国化へ方針転換を模索しはじめる。
 このため、この年、永禄10年8月の越前勢の侵攻はかなり先鋭化する。明らかに従来の懲罰行為より攻撃的となり、越前と若狭の国境佐田の駈倉山には新たな付城を設け、そこを根拠地にして、在地の神社仏閣の破壊、さら に徹底した農作物の略奪をおこなっている。

▼駈倉山城・主郭跡 ▼腰越坂現況

 粟屋勢は最初、国吉城に隣接する岩出山砦から越前勢を迎え撃つ準備をしていたが、越前勢はこれを見越して国吉城と岩出山砦の境である腰越坂を攻撃して、粟屋勢の分断を図ったため、砦の粟屋勢は国吉城へ引き上げざるを得なかった。直後、越前勢は腰越坂から一気に攻め上ったため、粟屋氏側は百姓達が避難、籠城している小屋に自ら火を放って、これを必死で防いだため、越前勢も駈倉山へ兵を退いた。
 駈倉山は標高60mほどで、周辺を堀で固めても、とても要害の地とはいえないが、すでに粟屋勢にはこれを落とす力が無いことを見越しての築城であろう。現在も主郭の周りには2重の空壕跡が残っている。

駈倉山付城跡の地図はここ
腰越坂付近の地図はここ

武田氏の若狭支配の終焉

 そして永禄11年を迎える。7月、朝倉氏のもとにあった足利義昭は織田信長のもとへ去り、早速信長は義昭上洛に向けて、朝倉氏の出兵を要請してくる。若狭衆へも要請があったはずで、放置すれば、盟友義統亡き後の若狭が信長の支配下に入る恐れが十分にあり、織田陣営と朝倉氏との緊張が一段と増す状況となっていった。
 このような中8月、朝倉氏は軍を動かし、3千の兵で若狭に侵攻した。もはや朝倉軍は国吉城には一切構っていない。永禄8年に椿峠道の北西側に造った専用の道(越前坂)を通り、三方へ進出した。
 三方には熊谷氏が居城の大倉見城を中心として出城や詰城に篭城していたが、最初は小競り合いがあったものの、多勢に無勢で熊谷氏も城から出ることはできなかった。
 熊谷氏の動きを封じた朝倉氏は、一気に遠敷郡小浜へと入る。朝倉氏側は野坂数馬、瀬尾大覚の2名が使者として守護館に入り、元明側と交渉し、同意を得て武田元明を越前へ拉致(保護)した。

▼誓願寺 ▼武田氏守護館跡の現況(空印寺)

 朝倉氏は死去した前守護義統との盟約で子の元明を保護したとも考えられるが、朝倉軍が守護館に迫ったさい、元明側は被官人の小原帯刀と野田甚太夫が守護館近くの誓願寺前に防御線を敷き一応抵抗したとされており、守護館が制圧されてもさらに居城後瀬山城に逃れ、再度抵抗し たとされることから、朝倉氏の行動は、元明の保護は名目で、あくまで若狭の属国化、支配を意図した措置とみるのが妥当であろう。
 背景には前述のとおり、足利義昭が越前を去り、尾張の信長に迎えられたことが、朝倉氏と若狭の関係をこれまでとは違ったものへと「進展」させたのである。
 これにより130年に及んだ武田氏の若狭支配は終焉を迎える。
 
 しかし、朝倉氏の若狭支配の意図がそのまま実現したわけではない。小浜は軍事的には朝倉氏の支配下に入ったと考えられるが、守護不在の若狭は一旦幕府支配のもとに戻った。
 武田元明は一乗谷から若狭の旧臣に朝倉氏への同心を命じて、若狭衆の中には朝倉氏に通じるものもいたが、粟屋氏のように、「たとえ元明殿の命であっても義景に同心することは思いもよらない」と依然反朝倉の姿勢を崩さぬもの もいたのである。

誓願寺と守護館跡付近の地図はここ

エピローグ

 足利義昭を擁して織田信長が上洛を果たすと、若狭衆のなかにも信長に通じるものが増えてくる。
 元亀元年(一五七〇)四月、信長は越前攻めのために京を出発し若狭に入った。小浜の武田一族や一部の被官人が頑強に反信長にたっていたものの、粟屋氏など重臣の一部は信長に通じ、織田軍を倉見峠で出迎えた。
 この時の戦いは、朝倉氏と同盟にある浅井氏 が信長から離反したため、織田軍は敗退を余儀なくされるが、天正元年、信長は近江と越前の境にあたる刀禰坂の戦いで朝倉軍を撃破すると、一気に越前に侵攻した。粟屋氏など若狭衆もこれに従軍していた。追いつめられた最後の朝倉氏当主義景は大野で自刃するが、朝倉氏の本拠地一乗谷に一番乗りしたのは粟屋勝久など若狭衆で、積年の恨みをはらすべく報復略奪に動いた。
 しかし、若狭衆が一番乗りを目指したのは、これだけが理由ではないだろう。自分達の主人若狭武田氏当主元明の 保護と奪還にあったのではなかろうか。
 朝倉氏滅亡後、一乗谷居住時代には朝倉氏に同心していた武田元明は小浜に戻ったが、信長に服した若狭衆の嘆願で信長から許され、蟄居の身でありながら若狭衆の名目上の主人として度々上洛もしている。
 しかし、本能寺の変が起き、それが収束すると、明智光秀に荷担した咎で元明は自刃を強いられ、名門若狭武田氏はここに断絶する。そして多くの被官人達もまた若狭を追放されていくのである。

▼武田元昭墓 ▼粟谷勝久墓

元明自刃の地はこちらに掲載しています

 

 

(了)

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Copyright (c) 2004-2008 H.Okuyama. All rights reserved.
写真撮影 2002-2004.6

*本稿は 、福井商工会議所報「Chamber」2004年7月号「越前朝倉氏の若狭武田氏支援と支配」を加筆して「戦国大名越前朝倉氏」に掲載した「朝倉氏の若狭武田氏支援と若狭攻防戦」を再掲したものです。(写真は一部差替えております)
無断転載はお断りします。

 

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