越前若狭歴史回廊  分館
   

 
国吉城攻防戦

*本稿は「戦国大名越前朝倉氏」に掲載した「朝倉氏の若狭武田氏支援と若狭攻防戦」を再掲したものです。
(写真は一部を除き差替えております)
「戦国大名越前朝倉氏」サイトはここ
 

     
   

朝倉氏の若狭進攻と若狭攻防戦(2)

永禄7年の戦い

 翌永禄7年も越前勢は9月に入ると若狭に兵を入れ、太田の芳春寺に陣を敷いた。
 この年は朝倉氏にとっても緊迫した年で、加賀へ一向一揆と対決するため軍を送り出しており、敦賀郡司朝倉景垙も加賀に出陣している。前年攻撃の指揮を執った半田又八も当然景垙に従い加賀に在ったと見るのが妥当であろう。後述するとおり、この年の攻撃はチグハグなことからも、若狭に侵攻したのは朝倉勢というより朝倉氏に服し敦賀の留守にあたった地侍が中心ではなかったかと推測される。なお敦賀郡司景垙は9月2日、加賀の陣中で大野郡司朝倉景鏡と大将争いに敗れて自害するという悲劇に見舞われている。
 
 話を戻して、戦いの経過を見てみよう。
 9月上旬、越前勢が再び関峠を越えて佐田へ向うことを察知した粟屋氏は、郡内に呼びかけ地侍から百姓に至るまで再び国吉城に篭った。
 侵攻した越前勢は、前回の失敗を教訓に、国吉城から程近く、しかも小丘の満願寺山や芳春寺山で視界がさえぎられる芳春寺を中心に付近の太田に陣を置いた。
 越前勢が陣を敷いた芳春寺は、この地域では当事最大規模の曹洞宗の寺院であり、守護武田氏の命を受けていたのか、早くから朝倉氏に通じていたとされる。越前勢がここに陣を置いたのもそのことが理由の一つであったのかも知れない。

 最初の攻撃は、国吉城の南側から迂回してなされた。国吉城は御岳山系の中腹(197m)にあるが、この時越前勢は、国吉城の南に位置する御岳山と国吉城を結ぶ尾根道に在ったとされる「立岩」近くに登り、ここから国吉城方面へ弓や鉄砲で攻め下ってきた。篭城記によれば、粟屋勢は弓、鉄砲で応戦しこれを退けたとされる。

 越前勢は、次に北西側の坂尻地域、天王山側から攻撃したとされる。 城の北側の麓は、当時機織池と呼ばれた潟になっており、攻撃が難しいからである。
 機織池は、国吉城天然の外濠ともいうべきで、往時は南北で150m、東西はもっと広かったとされ、1970年代まではその姿を留めていたが、現在は干拓され水田となっている。
 坂尻は天王山(330m)の東側の山麓にあり、国吉城との間に椿峠が通っていた。
 椿峠は、明治以降の開削で、緩やかなものとなって難所のイメージは薄いが、このころはまだ交通面での要害地であった。

▼天王山からみた佐柿、城主居館方面 ▼椿峠を通るJR小浜線

 ただ、国吉城はこの椿峠を押さえられるように築城されており、坂尻・椿峠から攻撃を加えた場合、その結果は当然予想されたものになる。にもかかわらず、越前勢は攻め寄せ 、案の定失敗していることからも、指揮官不在を見てとることができる。
 しかし、越前勢のねらいはあくまで農作物の収奪にあり、力攻めは犠牲が大きいと見た越前勢は、監視のために芳春寺の裏山(中山)に砦を築き、山東郷(国吉城の東側)一帯で秋の収穫時期に入った作物を簒奪した。

地図はここを参照  椿峠(縮尺拡大) 
この地図に記載はされていない芳春寺の位置(地図の中心)


永禄8年の戦い
 
 3年目となる永禄8年は、越前勢はこの中山の砦城を拠点に、坂尻から椿峠の北西側に専用の道をつくり、粟屋氏の拠点ともいうべき「耳庄」への交通の確保に乗り出した。
 この年は敦賀郡司家の半田又八自身が出陣していた。
 前年、主人朝倉景垙に従って加賀に出陣していたと思われる半田又八は、景垙の自刃で敦賀に戻り、一昨年の借りを返すべく春先から若狭に入り、刈取り前の田畑からも収奪を繰り返す。また、かなりの土木要員も連れてきていたと考えられる。前年に築いた中山の砦(芳春寺山)を、「中山の付城」といわれるまでに整備したのは、おそらくこの年ではなかろうか。前述のとおり、その前年には敦賀郡司家は加賀に出兵しており、それどころではなかった。残された城跡の完成度からみても、この年、春先から夏にかけて道路普請と併せて整備したとみたほうが妥当であろう。
 粟屋勢はこれらの「工事」や略奪があっても、多勢に無勢で手を出すこともできない状況に置かれていた。
 そのような中で粟屋勝久は、無抵抗のままということが「他の若狭の諸将に知れては恥辱」として一矢報いるべく、夜襲を計画する。
 勝久は兵を三手に分けたとされる。
 第1隊は芳春寺山(中山の付城)の南側から太田方面へ
 第2隊は芳春寺山(中山の付城)の北側から芳春寺方面へ
 第3隊は満願寺山からそのまま芳春寺山(中山の付城)へ攻め入る部隊 
 要は付城にいる朝倉軍本体の攻撃と、付城から逃げてきた部隊を待ち受ける部隊に分けて攻撃したいうことであろう。

▼芳春寺 ▼太田河原現況

 9月28日、忍びの者2名は付城に火を放つと、第3隊は一斉に鬨の声をあげ朝倉軍に攻撃を加え同時に鉄砲でも攻撃を加えたとされる。この奇襲に朝倉軍がとるものもとりあえず城を出て山をおり、芳春寺や太田村に陣する部隊と太田河原で合流し、軍を整え態勢立て直しを図 ったが、別働隊の粟屋勢に攻め立てられ、混乱は収まらず、ついに半田又八は佐田の織田(おりた)神社方面から逃れたのをはじめ 、越前勢は撤退に追い込まれた。 織田神社は延喜式内社の大社で、古代から栄えたとされる神社で佐田集落の東南に在る。この後背が関峠にあたり、ここからまっすぐ峠へ逃れたのであろう。
 粟屋勢はこの時討ち取った首を河原に「掛け並べた」とされるが、河原での戦いは粟屋勢にもかなりの被害がでた。

この地図に記載されていない太田河原付近(地図の中心)
この地図に記載されていない佐田織田神社(地図の中心)


永禄9年の戦い

 永禄9年の越前勢との抗争は「籠城記」では記録されていない。むしろ事実を伏せているといったほうが正確であろう。
 
 代わりに、水争いに起因する内部対立での裏切り、朝倉氏への内通者やその成敗など篭城戦以外の記述が饒舌に語られている。味方に内通者が出たことを探った後家が 小浜の「武田殿」に注進する話など荒唐無稽で事実とは思われないが(記録性の強い写本にはこの部分は存在しない)、このような争いや裏切りが身近に存在したのは事実であろう。

 しかし実際には朝倉軍はこの時、これまでと違って、本格的に国吉城を囲んでいたと思われる。前述の武田氏重臣逸見氏が、新たに築いた高浜城を拠点にして、再び守護武田氏に背き兵を動かしている。このため、これに同調する粟屋氏を牽制するため、朝倉氏は守護武田義統の要請で、年明けから国吉城包囲を続けたと考えられる。この結果、逸見氏は孤立を強いられ、逸見氏期待の水軍も、6月には逆に守護義統が編成し山形秀政を将とする守護方水軍に敗北を喫することになる。逸見氏は永禄4年に続き再度の敗北であった。
 それでも、小浜周辺は依然緊張状態にあったため、包囲網が解かれることはなかったと思われる。
 そのような中、前年5月19日、三好三人衆らの謀叛により将軍足利義輝が殺され、直後近江に脱出したその弟覚慶(義秋、のちの将軍義昭)が、この年8月29日には姉婿にあたる若狭守護武田義統を頼って若狭へ入国してきた。目立った抗争が起きなかったのは朝倉勢も粟屋勢もその動向を注視し、おそらくお互い自粛せざるを得なかったのである。
 篭城記は、粟屋氏の守護武田氏への謀反には一切触れず仕舞いで、当然朝倉氏が若狭守護武田氏の要請で若狭に出陣していることは伏せたままである。
 
 しかし武田氏にはすでに足利義昭を扶ける力はなく、9月8日、義昭は朝倉氏を頼り、武田義統を伴い敦賀に入った。これに伴い朝倉氏側は国吉城の包囲を解いたと考えるのが妥当であろう。将軍候補である足利義昭の動きに左右されたのである。
 武田義統と朝倉氏は盟友関係にあるため、敦賀へ随行しても本人は違和感が無かったかも知れないが、国吉城に籠城している粟屋勝久などにすれば複雑な思いであった。
 自分達の主人である若狭守護が、抗争相手である越前朝倉氏の敦賀郡司のもとに出向いているのであり、しかもその後も国吉城の麓の椿峠を通って、「贈り物」を届けに敦賀を訪れていたからである。
 
 そして、この足利義昭の来越はこの後朝倉氏と若狭の関係を大きく左右することになるのである。
 

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写真撮影 2002-2004.6

*本稿は 、福井商工会議所報「Chamber」2004年7月号「越前朝倉氏の若狭武田氏支援と支配」を加筆して「戦国大名越前朝倉氏」に掲載した「朝倉氏の若狭武田氏支援と若狭攻防戦」を再掲したものです。(写真は一部を除き差替えております)
無断転載はお断りします。

 

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