越前若狭歴史回廊  分館
   

 
国吉城攻防戦

*本稿は「戦国大名越前朝倉氏」に掲載した「朝倉氏の若狭武田氏支援と若狭攻防戦」を再掲したものです。
(写真は一部を除き差替えております)
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朝倉氏の若狭進攻と若狭攻防戦(1)

 応仁の乱で、若狭武田氏(若狭守護)が東軍の副将を務めれば、長年斯波氏の宿老にある越前守護代甲斐氏や朝倉氏は、幕府管領で西軍の総帥である斯波義廉に属し、若狭武田氏など東軍と激しい刃を交える。
 しかし、当初中立であった将軍義政が次第に東軍への肩入れを明らかにすると、朝倉氏は主人斯波義廉(西軍)のもとを離れ、東軍への寝返りを決意 、これが武田氏にも大きな影響をあたえることになる.......

プロローグ
若狭武田氏・越前朝倉氏 宿敵から同志へ


 応仁元年1月「上御霊社の戦い」に端を発した戦いは、5月ついに、東西両軍に分かれて京を焼野原とする「応仁の乱」に発展する。両軍の兵力は、合わせて二十数万にも及び、若狭武田氏が東軍の副将的立場にあれば、斯波氏の宿老である越前朝倉氏は、西軍総帥で幕府管領斯波義廉の重臣として乱で活躍しその名を京にとどかせる。
 戦いの火ぶたは5月26日東軍によって切られた。堀川を挟んでの両軍の激突は、「洛北(上京)の戦い」といわれ武田氏、朝倉氏はそれぞれの陣営で丸二日間に及んだ。

 6月に入ると、東軍は西軍を指揮する幕府管領斯波義廉の邸宅(武衛陣と呼称されていた)の攻撃を準備するが、それを担ったのが東軍副将若狭武田氏である。
 武田勢は斯波邸のある勘解由小路の東南に廻り込み準備にかかったが、悲劇はこの時に起こった。その動きは斯波軍に見透かされ、斯波氏重臣の朝倉氏に二条で待ち伏せ襲撃され、二十余人が討ち取られたのである。しかも、朝倉氏は士気を鼓舞するため、その首をならべて酒宴に興じたという。若狭武田氏にとっては無慘な結末であった。
 このあとも若狭武田氏と西軍に属した朝倉氏は様々な戦闘で激突し、宿敵となる。
 しかし、将軍義政が徐々に東軍に肩入れしはじめると、朝倉氏は西軍にとどまることの不利を感じはじめる。
 背景には越前での情勢悪化もあった。
 当時の越前の情勢を見ると、東軍に属した斯波義敏が応仁元年五月越前に進攻したが、西軍に属した越前守護代甲斐氏は、府中守護所を押さえ、在地に強固な支持基盤を持っていたため、攻撃対象が相対的に弱い朝倉党類に集中し、朝倉勢はことごとく国中から追い出される情況になっていたのである。
 応仁二年閏十月朝倉氏は越前へ下向し、東軍に寝返ると東軍斯波義敏の子(松王丸)を推戴し失地回復をはかり、さらに西軍で守護代甲斐氏との越前支配をかけた戦いに乗り出す。
 東軍に帰順して越前平定に着手した朝倉孝景にとって、越前内外の情勢は、当初必ずしも有利な状況ではなかった。このため将軍義政は、江北の朽木氏や若狭武田氏に朝倉氏の支援を命じることになる。
 ここに至って、かっての宿敵は同じ陣営に属する同志となったのである。それはやがて盟友関係にまで発展していくことになる。

  
揺らぐ若狭武田氏の領国支配

 応仁の乱を経て諸大名は領国へ下国したが、若狭が京に近いという地理的条件もあって、若狭武田氏は京にとどまり、幕府や朝廷からの軍勢催促や財政上の費用負担を担っていた。このため武田氏は中央の政治動向の影響を受け、たびたび国外への出兵を余儀なくされたが、これは若狭にとって大きな負担となり、武田氏の支配を揺るがす事態へと発展していく。特に、15世紀末以降将軍家や管領細川家の分裂抗争に巻きこまれ、大きな犠牲を強いられ、結果として勢力を弱めることにつながっていく。
 武田氏の領国若狭の支配は遠敷郡がその中心で、丹後との国境になる西の大飯郡高浜には重臣逸見氏が、越前との国境となる東の三方郡佐柿には同じく重臣粟屋氏が、それぞれ隣国への防備の役割を担って配置されていた。そして家臣の離反・叛乱は、この両輪ともいうべき重臣を中心に展開していく。 

 重臣のなかでも大飯郡高浜を支配した逸見一族は、若狭武田氏の初期にはその軍事力の中核を占めたが、16世紀に至ると、しばしば叛乱をおこす。また、粟屋氏の総領家は経済的にも重要な小浜も支配していたが、周りの被管人とともに1538年(天文7)に大規模な叛乱をおこした。
 これらの反乱の鎮圧には、幕府や朝倉氏の支援なしでは押さえ込むことができず、武田氏の支配体制を動揺させるに至る。それは武田氏による領国支配がその破綻の色を濃くしつつあったことを示している。
 そして弘治年間以降になると、家臣たちの離反、相互対立など、若狭は次第に内部分裂し、永禄年間に入るとすでに武田氏による家臣統制力は急速に失われていく事態となっていった。

永禄四年の叛乱

 永禄四年正月、以前から謀反の兆しがあった武田氏重臣逸見昌経は同じく重臣で三方国吉城主粟屋勝久と合同して高浜砕導山城に立て篭もり叛乱する。

 武田氏にとっては、最大の危機であったといえる。当時の若狭武田氏当主義統は早速朝倉氏に支援を求めた。朝倉義景は朝倉宗滴の養子で敦賀郡司の景紀(この頃には郡司職は嫡男 景垙に譲っていたが)を総大将に1万1千の援軍を若狭に送り、景紀は武田氏とともに砕導山に立て篭もった逸見氏・粟屋氏らの8千の連合軍に立ち向かい、6月19日これを落としている。しかし、逸見氏、粟屋氏も武田氏の重臣であり、討伐するところまでには至っていない。
 この後、三方郡の粟屋氏はその後武田氏の支配から事実上離れ、逸見氏も砕導山を落とされたため、今度は高浜に水・平山城を築城し、叛旗の機会を伺う。
 若狭はもはや盟友朝倉氏の軍事力なくして分国経営は困難な事態となっていくのである。ただ武田氏とその家臣の抗争は、同族や姻戚関係がからみあっており、互いに相手の完全打倒を目指したものではなく、家臣も主人武田氏を認めながらその自立を意図し、武田氏も家臣を統治すること を主眼としていた。

国吉城攻防戦

  一方朝倉氏は、当主朝倉義景母の出自が若狭武田氏という姻戚関係にもあり、当初は武田氏の支援が目的であった。しかし、情勢の変化に伴い、次第に支援の性格を変質させていったと考えられる。
そのような時期に起きたのが越前と若狭の国境の三方郡を支配する武田氏重臣粟屋勝久の佐柿(現美浜町)国吉城の攻防戦である。

■粟屋氏と国吉城跡についてはここも参照ください
 

 最初の戦いは永禄6年におきるが、これは若狭守護武田義統から永禄四年の叛乱以降「言うことをきかない」重臣粟屋氏の懲罰を依頼されての事であったと思われる。
 朝倉氏の本拠は、いわずと知れた一乗谷であるが、府中(武生)には奉行所を、そして大野と敦賀に郡司を置いており、軍奉行・猛将として有名な朝倉宗滴は敦賀郡司を兼ねていた。粟屋氏の居城である国吉城の攻撃にあたったのは、この宗滴の系統である敦賀郡司家で、この頃は宗滴養子の景紀から景紀の嫡男 景垙に郡司職が譲られていた。
 ただ、攻撃は「懲罰」が目的で、決して粟屋氏の滅亡を意図したものではなかったと考えられるが、攻め込まれるほうは大変である。

 この一連の攻防戦が、今日「国吉城篭城記」として残っている。粟屋氏側にたって書かれており、表現や戦死者数は、軍記物が大体そうであるように、誇張されているきらいがあるものの、戦いそのも のはおおむね史実と考えられる。
 当然のことながら、朝倉氏が国吉城攻撃した理由である粟屋氏の守護武田氏への叛乱には一切触れていない。「朝倉始末記」も朝倉氏が西軍から東軍に寝返った事実は伏せて、はじめから東軍で斯波義敏を支援していたかのように書いているが、軍記物はこういった点での注意も必要である。
 
 この戦いが有名になったのは、越前と若狭の国境の山城(国吉城)に籠城し、朝倉軍の攻撃を6年にわたって跳ね返し、ついに守り抜いたからである。ただし、朝倉氏側は本格的な軍勢を送ったわけではなく、当初は懲罰、牽制が目的であった。
 戦いの舞台となった国吉城は佐柿・椿峠の南にある高さ2百メートルの山城で、山上からは東に美浜地域、西に三方地域一帯が見渡せる要衝で、現在もよく遺構が残っている。
 
永禄6年の戦い

 永禄6年(1563)8月、越前朝倉軍侵攻を聞いた郡内は大騒ぎとなった。三方郡を治める国吉城主粟屋勝久は、早速郡内に呼びかけ兵を集め、地侍から百姓に至るまで城に籠もった。籠城戦の始まりである。
 攻め手である敦賀郡司朝倉景垙の臣半田又八は、9月1日千騎を率いて天筒山城を出発 一旦国境に近い金山で軍勢を整え、2日早朝から若狭国境の関峠に向かった。
 関峠は標高はそれほどないが、古代から若狭との国境として重視され、関が設置され、それが地名に転じたのであろう。最近までは国道27号の重要な位置にあったが、今はバイパスが近くを通り、交通量は激減し、頂上にある石仏も車を停めてゆっくり拝むことができる。

▼関峠現況 ▼峠の石仏

 さて、粟屋氏側は、山本豊後守田邊半太夫以下3百人で 、国境関峠の谷あいを塞ぎ、ここで待ち伏せ攻撃を加えた。
 このため越前勢はいったん敦賀の金山まで後退する。しかし、すぐに体勢を立て直し、翌3日には国吉城東麓の山上村から城下に殺到した。
(関峠周辺地図はここ

 粟屋勢は攻撃を控え、越前勢が山を登りはじめてもわざと放置し、中腹に達するやあらかじめ準備していた大石や古木を投げ落とし、弓、鉄砲で激しく攻撃した。籠城記によると、越前勢364人を討ち取ったとされるが、人数はかなりの誇張 であろう。しかし、朝倉宗滴以来の敦賀郡司家の股肱の臣ともいうべき半田又八の攻撃を跳ね返したのは事実であろう。
(国吉城周辺地図はここ

 ただ、篭城記が記すように、攻撃が失敗し、直ぐに越前勢が敦賀へ退いたとは考え難い。この後、越前勢は毎年のように「実りの秋」に国吉城に押しかけてくることになるが、特に、翌年は朝倉氏が加賀に出兵している最中であり、国吉城への懲罰は控えるのが常識的であろう。それにも係わらず、翌年も地侍が押しかけたのは、この年に「実りの秋」をまるごと収奪する味を地侍達が覚えたと解するのが妥当なとこではなかろうか。
 しかし、「篭城記」は、越前勢に「大勝」したことになっているから、そのまま越前勢が国吉城を囲んでいたのでは、話の辻褄があわなくなるため、すぐに敦賀へ退いたことにしたと考えられる。
 ちなみに、篭城記の著者は、関峠で越前勢を相手に活躍する田邊半太夫その人である。

 こうして、半田又八の配下の地侍は、この後、執拗に国吉城に攻撃を加えることになる。
 

(2)へつづく

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写真撮影 2002-2004.6

*本稿は 、福井商工会議所報「Chamber」2004年7月号「越前朝倉氏の若狭武田氏支援と支配」を加筆して「戦国大名越前朝倉氏」に掲載した「朝倉氏の若狭武田氏支援と若狭攻防戦」を再掲したものです。(写真は一部を除き差替えております)
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