越前若狭歴史回廊  分館
   


応仁の乱と若狭武田氏の奮闘 其の六(完)


東西での裏切りの横行

 文明3年、若狭守護武田信賢の弟元綱が西軍に寝返り、正月、守護信賢派の安芸分郡の郡司を殺害したことは前述したが、前年の文明2年からは両軍ともに寝返り工作を活発化させ、裏切りが続出していたのである。
 西軍では、西軍総帥管領斯波義廉の被官人で、乱の勃発時に目を引く活躍をみせた朝倉孝景が対象となった。東軍にとって 、朝倉孝景は西軍を指揮する斯波義廉の重要な軍事力であり、ここに楔を打ち込むことは西軍の士気を大いに削ぐ効果があり、特に斯波義廉に与える打撃は極めて大きい と考えられ、裏切り工作の対象となったのである。
 応仁2年閏10月14日には、孝景は嫡男氏景だけを京都に残し、兄弟3人を伴い越前へ下向していった。そして、文明3年5月孝景の東軍寝返りが決定的となる。21日越前守護代就任への将軍義政の御内書が下され たとされ、6月8日夜、京に残っていた孝景子息氏景は夜に細川讃州(成之)の屋形へ入り、10日に将軍義政に拝謁し、越前に下った。
 このころには大内氏や京極氏など、東軍・西軍をとわず、諸大名の一族やその被官人間で、裏切り・寝返りが繰り返されることになるのである。

 
信賢の死と国信の家督継承

 若狭武田氏にも、苦難が続いていた。
 武田氏とともに京の東口の防衛にあたっていた東軍京極氏守護代多賀高忠の一族にも寝返りがおき、これを衝いて文明3年正月、近江の西軍六角高頼が京に進出 、このため、若狭武田氏は細川成之とともに多賀高忠を支援し、これを追い落とし、高忠は如意ヶ嶽の陣に合流した。
 しかし、3月21日には如意ヶ嶽の陣を、六角高頼を支援する西軍の美濃守護代斉藤妙椿勢に攻撃され、結局武田氏は陣を放棄し、東軍の本陣へ の合流を余儀なくされた。
 そのような状況の中、応仁の乱勃発時からここまで、若狭武田氏を率いていた守護信賢が病に倒れたのである。6月2日に信賢は52歳で病没し、家督は弟国信が継いだ。
 
 一方、朝倉氏の東軍帰順後の越前での戦いは、順調には進まなかった。西軍甲斐氏の勢力は手強く、越前での甲斐氏との抗争は、最初は不利な状況が続いたのである。
 若狭武田氏と朝倉氏は、これまで京で度々刃を交えたが、このような状況のなか幕府は東軍に帰順した朝倉孝景を援けるため、武田氏に支援を命じた。
 このため、家督継承間もない国信は、宿敵であった朝倉氏を支援するため、朽木貞綱とともに越前敦賀へと赴いている。この時の敦賀は甲斐氏の一族が立て篭もっており、これを牽制することが狙いであったと思われるが 、その詳細は判っていない。
 何れにしても、長く対立関係にあった朝倉氏と若狭武田氏は、ここではじめて同陣営に属することとなったが、後に盟友関係にまで発展するとは、この時は両者とも予想だにつかなかった。

講和、厭戦気分の蔓延

 このように寝返りが相つぎ、戦線が地方に拡大するものの、洛中では厭戦気分が広まっていった。文明4年1月、乱発生後は殆ど指揮権を放棄していたかに見える山名宗全が、東西和睦を提案したとされるのもこの 現れである。ただ、この頃には宗全は人事不省とまではいかないまでも病床にあり、すでにその指導力はなかった。
 細川勝元も、自分の継嗣を養子の勝之から、実子の政元(母山名宗全女)に切り替える行動を見せ、山名氏に応えているが、東軍もそれ以上の動きにはならなかった。
 なお若狭守護武田国信はこれらに先立ち、正月18日、前日の幕府和歌会に引き続き自邸で月次和歌会を催している。このことからも、広く講和気分がでてきていた ことは間違いない。
 しかし、この時の講和は実現しなかった。
 そして文明5年を迎える。
 舅と婿の関係にある山名宗全も細川勝元も乱の収拾を放棄し、現実逃避的な生活にあったが、3月19日、病床にあった山名宗全が先に70歳で死没、それを追うように5月11日、細川勝元が44歳で急死したのである。

▼山名宗全(遠碧院殿)墓 ▼細川勝元(龍安寺殿)墓

 宗全の死で一時は消沈した西軍も、勝元の死で揺り戻しが起き、西軍管領斯波義廉の宿老甲斐八郎(敏光)が、東軍に寝返った朝倉氏を討つために越前に下国し、反転攻勢に転じたりしていた。
 しかし、両将の死を機とした和平気運、厭戦気分は押し留めることはできず、年末には、乱の一つの要因でもあった将軍後継が義政嫡男の義尚(母日野富子)の就任で収束し たこともあり、翌6年4月3日、山名・細川両家の新しい惣領山名政豊・細川政元(山名宗全孫)の間で講和が結ばれた。東軍副将ともいうべき若狭武田氏の国信は当然細川氏と行動をともにし、この講和に参画している。

 もちろん両畠山氏など講和に反対する勢力も多く、戦乱がすぐに収束したわけではなく、西幕府諸将は講和直後の18日から大内、畠山を中心に連続して会合し、西幕府自体の存続を決定し、その後も京や周辺での合戦は続けたが、洛中での緊張緩和は否めなかった。

若狭武田氏宿老逸見氏の悲劇

 しかし、この講和を支持した若狭武田氏が失ったものは少なくなかった。講和に伴い、同年閏5月には、応仁の乱で武田氏に与えられていた丹後守護職が、西軍であった 前守護一色氏(形のうえでは義直の嫡子義春)に返付されたため、一色氏は丹後戦線で分国奪還に動き出す。しかし、多くの犠牲を払って丹後支配を実現した武田・細川家臣は、丹後支配を直ちに放棄することを拒否し、一色氏との間で合戦となり、これは激しいものとなった。
 この間、武田国信は講和に加わったため、応援部隊や救援部隊を丹後に送ることはできなかった。激戦は4ヶ月に渡って展開したが、丹後戦線の総大将である武田氏の筆頭宿老の逸見宗見は、主人武田氏からの後方支援のないまま孤独な戦いを強いられた。
 そして9月、武田氏勢力は一色氏に追い詰められて包囲され、宿老逸見宗見は自害に追い込まれた。多大な血を流して得た丹後の支配権であったが、ここにその終焉を迎えた。京でその悲報を聞いた守護武田国信は、悲嘆に暮れ、何の援軍も送らなかった罪の意識もあってか出家の道を選択し宗勲と号した。
 武田氏宿老の逸見宗見が一色氏勢力に包囲され自刃した場所は野田川町上山田の山田城とされている。上山田の神社の横から登ることができ、あまり大きな城ではないが、郭跡や空濠跡など遺構が今も残っている。
 若狭武田氏最大の軍事力を誇った逸見氏は、丹後山田城での宗見の自刃に先立ち、勧修寺の戦いで嫡男の繁経も敗死しており、弱体化は免れなかった。それはまた、若狭武田氏の軍事面での弱体化へ繋がるものでもあった。
 が、それ以上に逸見氏側には、何の手も打たず傍観した主人武田氏への不満が鬱積していったと考えられる。後年逸見氏が繰り返し反乱を繰り返す下地はこの時に形成されたのかもしれない。

エピローグ

 西幕府を主導してきた斯波義廉の動きは、文明6年の講和のころから表舞台から消え始める。斯波義廉御教書、管領奉書は文明5年6月まで確認できるがその後は不明であ る。一応講和を支持したとされる義廉であるが、文明7年には尾張へと下向し、その後暫くは尾張国内での消息は確認されるもののやがて不明となる。
 文明6年の講和に加わらなかった西軍の畠山義就や大内政弘も、同9年には京をはなれまたは帰国し、ここに11年に及ぶ応仁の乱は終息する。西幕府が目指した守護大名の連合 ・宿老政治の復活は、殆どの大名が京を出ることにより 挫折し、足利幕府は皮肉にも将軍親裁色を強めていくことになるのである。

 さらに、将軍職を継承した義尚が若くして没すると、西幕府将軍足利義視の子である義材がその後継となるなど、 これまた皮肉な展開となる。

▼相国寺の足利義政墓 ▼足利義尚像 ▼華頂院の日野富子墓

 諸大名が領国へ分国へ下国するなか、若狭守護武田氏は、若狭は京都に近いという地理的条件もあって、その後も京にとどまり続けた。そして、幕府や朝廷からの軍勢催促や財政上の費用負担を担っていく。
 このため武田氏は中央の政治動向の影響を受け、将軍家や中央の抗争に巻きこまれ、若狭武田氏のみならず若狭全体が大きな犠牲を強いられ、結果として武田氏の若狭支配を揺るがす事態へと発展していくことになるのである。

(了)
 

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