越前若狭歴史回廊  分館
   


応仁の乱と若狭武田氏の奮闘 其の四


応仁二年の戦い

 応仁元年十月三日、四日と展開した相国寺合戦は、双方に甚大な被害をもたらしたこともあって、以後本格的な戦闘は下火となり、戦局は膠着状態となっていく。その年は十二月七日に東軍が船岡山の大内軍を攻撃した程度であったが、東軍は、依然として京の東北隅の室町第一帯に押し込まれていることに変わりはなかった。

 この状況の打開のため、翌応仁二年元旦夜半に、細川勝元のゲリラ部隊が西軍本陣(西陣)の攻撃に撃ってでたが、士気を鼓舞する程度のもので終わった。
 
←西軍本陣の山名邸跡
現在も山名町としてその名をとどめてている。写真は堀川通りからの山名町方面

 

西陣の碑→
西陣の名は応仁の乱の西軍本陣に由来する

 若狭武田氏も、三月十七日に北小路烏丸で大内軍と戦っているが、これは西軍に包囲されている東軍の唯一の外部との通路である御霊口を守るのが目的であろう。

 細川氏は戦局打開のため戦を周辺にもひろげ、三月二十日但州合戦(夜久野合戦)が起きている。これは東軍細川勝元 の領国である丹波と、西軍山名宗全の領国但馬の国が隣り合わせであったため、国境である夜久野が原が主戦場となった戦いである。
 山名氏重臣の太田垣土佐守は京都西陣の山名の西軍で在京しており、但馬は弟新兵衛が大将として守っていたものの、手薄であった。そこを細川氏重臣丹波守護代の内藤氏に突かせたのであるが、結果は内藤氏一族孫四郎も奮戦したが討ち死にし、細川方の敗北に終わっている。

管領斯波義廉の解任

 このような閉塞状況のなかで、政局は動いた。応仁二年七月、ついに将軍義政は西軍総帥である斯波義廉の管領職を剥奪し、これを東軍の細川勝元に与えたのである。ここまで、義政は東軍に与していたとはいえ、実際には山名宗全の討伐を命じただけで他の西軍諸将に対しては何の対抗策も講じず、乱勃発からここまで一年以上も幕府管領職も西軍総帥の斯波義廉に与えたままであった。ところが、ここにきて管領義廉との絶縁を宣言するとともに、西軍諸将の役職剥奪に動いたのである。
 
←広大な室町第跡の一角
御所八幡町にある大聖寺も跡地の一部、同じくその北の同志社学生会館は現在建て替え中

 

将軍義政像→
(慈照院蔵)

 ここではその背景に何があったのかは立ち入らない(最近は関東の情勢の影響を指摘する研究が目立つ)。西軍を率いる管領斯波義廉は、管領奉書のほかに八大大名連署状(土岐、山名、畠山など西軍大名が連署し、最後に管領斯波義廉がサイン)も出しており、その宿老政治(管領政治)手法や、勝手に山城守護に畠山義就を任じたりと事実上の西幕府が動き出したことに、将軍義政が強い反発を示したであろうことの指摘にとどめたい。

 西軍諸将の役職剥奪は、東軍副将若狭武田氏にも大きな影響を与えることになるの だが(次回にとりあげる)、武田氏はこれに先立ち、この年二月に領国若狭の小浜に城郭を築いたとされる。それは一部に伝えられる青井山なのか何処なのかは現在わかっていないが、乱の長期化を見越して、依然小浜に影響を持つ一色氏勢力への牽制と、領国経営の安定化を狙ったものは間違いないであろう。

 また、東軍は先に西軍優位を見て取って「脱走」した東軍の大将足利義視を伊勢から呼び戻すことに腐心し、交渉を重ね、九月十二日義視は京に戻り北岩倉の入江殿に入った。
 この頃には両軍の布陣はほぼ固定しており、両軍とも本陣の周りを土塁と濠で固め、物見用の大井楼を建て、特に一条通は両軍が対峙し長い空濠が続いていたとされる。
 
船岡山の戦い

 軍事面では劣勢でも、このような政局での有利さを背景に、応仁二年九月三日、東軍の丹波守護代内藤備前守(勝元の被官人)が丹波国の軍勢を催して、同六日大江山を越えて嵯峨に攻め込んだ。このため西軍の斯波義廉や大内政弘、畠山義就が防戦のために嵯峨に向かったが、その虚を衝いて、東軍は大内軍の本陣船岡山を攻撃した。
 船岡山には西軍の留守部隊として一色義直らが守っていたが、東軍は三方から攻撃したため、守りきれないとみた西軍留守部隊は五十余人の戦死者を出し城を捨て敗走した。
 しかし、折角奪取した城であるが、東軍の本陣・支配地から離れていることもあり、維持することは困難で、結局東軍は城を焼き、軍を引かざるを得なかった。
 一方、嵯峨、仁和寺一帯に攻め込んだ東軍の内藤氏率いる丹波の国人も、西軍の反撃の前に敗北を喫した。この間の戦いで天竜寺、臨川寺、常幡寺が焼失した。西軍はさらに洛外周辺で東軍に与力する勢力への攻勢を強めた。
 
←船岡山遠景
この後の永正期も戦乱の場となった

 

臨川寺→
夢窓国師開山であるが兵火や火災で創建時の面影はない

 このころ、将軍義政がますます東軍に引き込まれていくなかで、洛外に所領を有する幕府奉公衆や国人・土豪層は東軍に荷担していたのである。
 八月には東軍武田信賢や赤松政則らの諸将は、山科、勧修寺、醍醐、木幡、藤森、深草、竹田に進攻し、幕府に好意的な周辺を固める動きにでていた。

 東軍が軍事的には劣勢で、室町第一帯に押し込められ西軍の包囲下にありながらも、延命できた理由は、室町幕府との関係が浅からぬ京周辺(近郊農村)の在野勢力の支援があったからなのである。
 特に、西岡の被官衆は、一般の歴史書にはあまり登場しないが、応仁の乱の初期から準主役を演じており、 そのほか京周辺の動向は、次の戦国時代を準備した戦いとして極めて重要と考えられるが、話が細かくなりすぎるのでここでは省略しておくことにしたい。山科、鳥羽、木幡地域も同様である。
 
←西岡の名残
西岡の名前が残る
西ノ岡中学

 

物集女城跡→
西岡の代表的城館である物集女城跡の
土塁、壕

 ところで、西岡というのはあまり聞き慣れないが、これは室町期特有の地名で、桂川以西の地域を指している。京都市西京区桂川以西で、現在の長岡京市、向日市も含まれる。 西軍から山城守護に任じられた畠山義就を中心に,、このころから西軍は、東軍本陣ではなく京周辺の西岡や山科へ軍を展開しているが、それには十分な理由があったのである。

西幕府の発足

 洛中での膠着状態と戦闘の洛外展開のなかで、政局はさらに動く。
 閏十月十四日 西軍総帥斯波義廉被官人朝倉孝景が子息氏景を残し、兄弟三人で越前に下向している。名目は東軍方の斯波義敏に 越前がかなり押さえられたため、義敏に反撃し失地回復を目指すというものであったが、実際は違っていた。孝景に対する東軍への勧誘(裏切り)工作が ひそかに進められていたのである。九月三日には幕府の政所執事伊勢貞親は孝景に対し勧誘の書状を出していたのである。

 当時の越前は、応仁の乱勃発ごろから東軍に属した斯波義敏が打入り、応仁二年五月頃には義敏方の軍勢により西軍の朝倉党類はことごとく国中から追い出されたと伝えられる状況であった。斯波氏の執事も努める守護代甲斐氏と違って 、朝倉氏は斯波氏分国の越前、尾張、遠江三ヶ国のうち越前以外に基盤はなく、存亡の危機にたたされていたのである。

 幕府側にも事情があった。乱の当初から管領斯波義廉の被官として西軍の中枢で活躍していた朝倉孝景の軍事力は無視できず、このため一般的には京から朝倉孝景を「追放」することが目的 の一つと説明されることが多い。しかし個人的にはそれだけではなかったと考えられる。
 たしかにそれも理由の一つであるが、洛中の大半を押さえた西軍を指揮し、新たな幕府創設に乗り出し始めた斯波義廉の「力」の削減が 、もう一つの隠された目的だったのではなかろうか。

 この頃すでに義廉は、西軍諸将と合議のうえ東軍大将足利義視を新将軍として迎える準備を進めていたのである。
 また、東軍に戻った足利義視も、犬猿の中である伊勢貞親が幕府内で復権していることに大きな不安を感じていた。将軍義政に貞親排除を訴えても受け入れられず、しかも 頼りの細川勝元までもが西軍シンパの貞親や日野富子に接近していたのである。

 十一月十三日夜の寒雨の中、足利義視は再び東軍を出て比叡山に逃れた。
 そして二十五日、ついに足利義視は勘解由小路の武衛斯波義廉の館(武衛陣)に入った。 武衛陣に集った西軍の山名宗全、畠山義就など大名諸将はこぞって馬・太刀を進上し、ここに将軍足利義視、管領斯波義廉の体制で西幕府が「正式」に発足したのである。

 それは東軍副将若狭武田氏に、あらたな課題と犠牲を強いることになるのである。

 
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其の五へ続く

 

   

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