越前若狭歴史回廊  分館
   


応仁の乱と若狭武田氏の奮闘 其の三


東岩倉山の戦い

 九月一日の戦いで、西軍は若狭武田氏らの守る三宝院など内裏の周辺の、東軍の「一の木戸」を突破したが、十三日には山名軍は小川 東の細川邸を攻撃し、小川を挟んでその近辺で激戦を展開。
 さらに西軍の畠山義就は「一の木戸」周辺の掃討作戦に乗り出し内裏を占拠した。この間の戦いで三宝院周辺に在った近衛殿、鷹司殿、日野殿、東は花山院殿、広橋殿、西園寺殿など公家邸三十七、吉良氏、大館氏、細川下野守、飯尾肥前守ら大名邸宅や奉行衆の宿所八十が焼失したとされる。
 まさに、東軍は後退につぐ後退であった。
 
←百々橋跡
今は小川は埋められ激戦の舞台となった小川にかかる百々橋も跡碑が残るのみ

 

小川痕跡→
近くを歩くと小川の跡が散見される

 一方摂津で大内軍上陸を迎撃した細川軍の秋庭元明や赤松軍の浦上則宗らは、摂津で敗れたものの、そのまま大内軍を追って遅れて京キに到着し、東軍との合流をめざしたが、すでに西軍の手が伸びており、五条から北へはすすむことができず、六条河原を経由して山科を経由、大きく迂回して南禅寺の後背にあたる東岩倉山に着陣した。
 
 この孤立した細川勢の状況をみた大内軍は、九月十八日の早朝に南禅寺から攻め上った。東岩倉の陣は、俄仕立てであるため防御も充分ではなかったが、摂津での雪辱に燃えて、大石などを投げ落とし防戦、懸命に反撃し、この結果大内方の攻撃は失敗に終わった。
 
▼如意ヶ岳(大文字山) ▼南禅寺

 次に、山名勢が粟田口の日の岡から攻め上ったが、これも、一方向からの攻撃であったため、大石を次々と投げ落とし退けたといわれる。
 三番手として、畠山勢の遊佐氏・誉田氏が山科から攻め上った。しかし、二度にわたる攻勢をしのいだ細川・赤松勢は、士気が高まり、木々の間や岩陰からさんざんに矢を射かけ、これも押し返した。
 その後、武衛斯波義廉の甲斐氏や、朝倉孝景が東岩倉山の上方如意ヶ岳から下って攻め込んだが、谷が深く充分な戦闘がおこなえないなか、細川勢の石飛礫で退却した。
 東軍苦戦のなかで、唯一西軍の攻撃を跳ね返した戦いであった。
 しかし、所詮は多勢に無勢、戦闘は十五日間にわたって行なわれたが、一斉に攻め込れれば、たちまち落城は免れないため、十月二日決死の下山を試み、吉田山(神楽岡)を経て御霊口に至り、何とか東軍本陣に合流した。
 この間に戦いで南禅寺、青蓮院などが焼失した。

 細川勝元や赤松政則がおお喜びしたことは間違いないが、東軍は京の東北隅の一帯に押し込まれ、その劣勢に変わりはなかった。

相国寺合戦

 この時東軍は三宝院−内裏−浄花院の「一の木戸」ともいうべき防御線を西軍に突破されていたため、現在の京都御苑の北側にあたる三条殿(関、松田氏守備)−高倉殿(武田氏守備)−烏丸殿(京極氏守備)と「二の木戸」ともいうべきラインで防御態勢を固め、若狭守護武田信賢勢は京極勢とともに高倉殿・烏丸殿の守備にあたっていたのである。
 

←三条殿(今出川殿)跡付近
西軍の一撃で崩れた

(何れも現在の京都御苑の北側区域)

高倉殿・烏丸殿跡→
武田信賢はここを固めていたが、相国寺の火を見て撤退した

 東軍は何としても一条通りで西軍の攻撃を跳ね返す覚悟を固めていたのである。
 一方、室町第の東に隣接する相国寺を敵に奪われては一大事と、相国寺には「三の木戸」として勝元の重臣(執事)安富元綱兄弟と細川勝之(勝元の猶子)以下三千騎が立て籠もっていた。赤松勢や武田国信(守護信賢の弟)もここで陣を固めていた。

 戦いの概要を、虚実が入り混じっていると考えられる「応仁記」の記述をもとに見てみよう。

 十月三日、西軍の畠山義就、義統、大内政弘、一色義直、土岐成頼、六角高頼の軍兵二〜三万人が、烏丸小路、東洞院通り、高倉通りから一斉に攻め上った。三条殿は伊勢の関民部少輔と備前の松田次郎左衛門尉が五百あまりで守っていたが、西軍の猛攻の前に一戦しただけで敗れ、松田は討死、関はかなわず相国寺に退いた。
 そのとき西軍に内通した寺僧の一部がなんと相国寺に火を放ったのである。これをみた高倉殿・烏丸殿の守備にあたっていた武田信賢や京極持清らは、敵が相国寺に乱入し、すでに落ちたと思い、相国寺北東の出雲路に退却した。

 一方、合図の火の手を見た西軍の大軍は、一斉に相国寺に突入した。相国寺を破られたらその隣は室町第(幕府)でもう後がない東軍も必死であり、両軍が総力を挙げてぶつかる白兵戦が展開された。
 
←相国寺の現在の総門

 

総門横手の堀と橋→
(往時もこのうようなものだったのであろうか)

 細川軍の安富元綱兄弟はわずかな手勢と勝之(勝元の猶子)の馬廻りだけで総門をかためて、石橋から攻め入る大軍を引き受け、七度まで押し返したとされるが、東門から西軍が再び攻め込んだので、元綱兄弟 らは配下の士と共に残らず討死した。
 総門では赤松勢が入れ替わって西軍に立ち向かったが、大内政弘と土岐成頼は、繰り返し攻め立てたため、赤松の一族多数がそこで討死となった。しかし赤松軍の浦上則宗らの奮闘で、さすがの大内軍も室町第へ入ることができなかった。
 このため、大内政弘は仏殿の焼け跡から突入をはかったが、今度は赤松貞村や武田国信が決死の覚悟で防戦し、突入は阻止された。 しかし東軍は相国寺を放棄せざるを得なかった。
 
▼山門跡と礎石 ▼仏殿跡

 焼けた相国寺のあとに、初冬の時雨が降り、火や煙も少しおさまったが、斯波義廉配下朝倉孝景や大内政弘らが陣取り、攻め口が無くて合戦に加われなかった一色義直や六角高頼もそれぞれ相国寺に入り、相国寺一帯は三万の西軍に押さえられた。 火は室町第の一部にも及んだとされている。

 御台富子が避難を勧めるという危機的な状況の中、室町第の将軍足利義政は、隣で燃える相国寺の火の粉を肴にして、いつもどおり酒宴に興じていたとされる。東軍であれ、西軍であれ、将軍義政にとっては家臣でしかない ことへの揺ぎ無い自信のあらわれであろうか。

 翌日、東軍の危機的状況を打開するため、乱の勃発の当時者である畠山政長が、討ち死に覚悟で僅か四千の兵を伴い室町第四足門から出、室町通りを上り、東に折れ、相国寺の塔頭普光院殿の焼け跡から西軍に突入した。政長は同行した細川勢の援軍を東からの横槍として投入したため、大軍の西軍は右往左往し混乱状態となり、大きな犠牲をだしながら兵を退いた。
 これ以上攻めるとなると室町第が戦場となることに、西軍諸将の逡巡があったことが幸いした。西軍は東軍の懐深く攻めすぎ、攻める場所がなくなっていたのである。

 この二日間にわたる相国寺合戦は、双方に甚大な被害をもたらしたこともあって、以後本格的な戦闘は下火となり、戦局は膠着状態となる。
 しかし、東軍は室町第(幕府)の一角に押し込まれ、完全に西軍の包囲下に置かれたかたちとなった。

 東軍副将若狭武田氏の困難は、さらに深まっていくのである。

 
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其の四へ続く

 

   


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