越前若狭歴史回廊  分館
   


応仁の乱と若狭武田氏の奮闘 其の二


将軍義政の東軍加担

 乱の当初は将軍義政は中立的立場をとっており、西軍は幕府管領斯波義廉を擁し、乱が始まるまでの軍議も勘解由小路に在る管領斯波邸でおこなっていたため、幕府軍の性格を有していた。 五月の本格的な戦闘の一月前には将軍義政も御台富子共々斯波邸を訪れいたのである。細川勝元が室町第を押さえたといっても、西軍からすれば 細川派が不法占拠しているにすぎなかった。
 
←烏丸通りからみた室町第付近
室町第は現同志社大学の烏丸通りを挟んだ反対側(西側一帯)に位置し、東西は烏丸通りから室町通り、南北は今出川通りから上立売通りまでがその敷地であった 。

発掘された庭石の一部→
室町第の遺構はないがマンション
建替え時に庭石の一部が発掘さ
れている
 

 ところが六月に入ると、それまであいまいな態度であった将軍義政は、富子の反対を押し切り山名討伐の命を出し、西軍諸将に帰降をよびかける御内書を出しはじめた。
 この時将軍牙旗(御旗)を勝元に与えたとされるが、本来将軍の旗は謀反討伐に与える性格のもので、大名間の争い(いわば私闘)の片方に与えた事に対しては批判的に見る見方が当時からあった。
 それだけに、細川勝元、武田信賢ら東軍諸将の喜びとは裏腹に、自らを幕府軍と思っていた管領斯波義廉の驚きは想像を絶するものがあったと考えられる。義廉は 幕府管領として、西軍の陣を出、一時斯波邸に戻らざるを得なかった。
 当時の記録(「雑事記」など)では、義廉は御所出仕を許されず、降参するなら朝倉孝景の首を取ってくるよういわれて屋形に引き篭もってしまったとされているが、これは風評であろう。
 将軍義政は義廉の管領職を剥奪しておらず、その後も一年そのまま管領職においている。将軍義政は、義廉の帰参を待っていたと解するのが妥当であろう。
 

管領斯波義廉邸をめぐる攻防

 義廉が動搖したのは事実であっても、一時的なもので勝元の東軍に降ることはなかった。
 しかし、東軍はこの機を逃さず攻勢にでる。東軍副将の立場にある武田信賢は、何としても「管領職」を東軍に奪い返す必要があった。幕府の政治は「管領奉書」によってなされるから、将軍の旗があっても現実の政治は動かないのである。
 武田勢は勘解由小路の管領斯波義廉邸を攻撃するため、その東南に廻り込み準備にかかったが、悲劇はこの時に起こった。その動きは斯波軍に見透かされ、斯波氏被官人の朝倉氏に二条で待ち伏せ襲撃され、二十余人が討ち取られたのである。しかも、朝倉氏は士気を鼓舞するため、その首をならべて酒宴に興じたという。武田氏にとっては無慘な結末であった。

 乱は管領にある斯波義廉をめぐってさらに展開する。

 六月二五日、七月三日と連続して東軍細川方は、管領斯波義廉の屋形を攻めている。理由があった。「管領奉書」の他に、細川氏の宿敵である西国の大内氏が西軍支援のために動き出すとの情報がすでに京に届いていたのである。
 東軍細川方は、大内・河野の軍勢が上洛しないうちに管領斯波義廉屋形(武衛邸)を攻め落し、西陣と下京への通路をふさぐとともに、管領活動の停止を 狙っていたのである。
 
←斯波邸(武衛陣)跡
斯波邸は東は烏丸、西は室町、北は下立売(勘解油小路)、南は椹木町通りの敷地で、正門はもちろん室町通りにあった。(現平安女学院)

→「此の付近斯波武衛陣」の石碑
大正五年に京都市教育会が建立

 

斯波邸については「越前若狭歴史回廊」本館・武衛陣跡を訪ねてを参照

 このため、七月十一日には若狭守護武田信賢、京極持清、赤松政則ら東軍の諸将と細川軍は、管領義廉の屋形を包囲し、一斉攻撃を仕掛ける。戦闘は二十日間にわたって双方に重臣クラスの死者を出す激戦が続いたとされるが、斯波義廉は被官人を鼓舞しこれを守りきった。
 これにも理由があった。越前における応仁の乱の前哨戦ともいうべき合戦、長禄合戦を戦い拔いたのが斯波氏の重臣甲斐氏と朝倉氏で、激戦には慣れていたことと、また応仁の乱の一因でもあった義廉と義敏の斯波家督争いで、前年には「建武以来都でこのようなことは無かった」といわれるほどに、 斯波邸は櫓をあげ、掻楯を並べたてて、要塞化されていたのである。
 依然幕府管領にある斯波義廉は、管領として西軍の士気をたかめ、西軍不利な状況のなかで何とか持ちこたえさせることに成功したのである。
 一方、東軍は管領邸攻撃に失敗し、その後「室町幕府奉行人奉書」を「管領奉書」代わりに使用することとなる。 この時以降、応仁の乱が終息しても、それまであまり重要でなかった「奉行人奉書」が格上げされ、幕府の通達文書になっていくのである。 それは「管領奉書」を出せない東軍の産物であった。

大内軍の入京

 そして、この時すでに大内軍は周防山口を発していたのである。十日に出陣し、途中河野軍とも合流し、二十日兵庫に上陸した。そして迎撃に出た細川軍を蹴散らし、八月二三日、大内政弘は大軍を率いて東寺口から入京し船岡山に着陣した。
 
 もはや東軍の不利は明らかだった。大内軍など二万二千があらたに加わったのである。勢いづいた西軍は一斉に反撃に転じた。東軍は、大内軍が入京した当日、後土御門天皇と後花園天皇を室町第(幕府)に移さざるを得ない状況に追い込まれ ていたのである。そして思いもしない事態が展開する。東軍不利、西軍有利を見て取った東軍の総大将である足利義視が京キを脱出し、伊勢に下ったのである。 この背景には義視と犬猿の仲である伊勢貞親が幕政に復帰したことも要因であった。
 勢いづいた西軍は攻勢を強める。この頃、若狭武田氏は上京と内裏の防衞のため、内裏東側の三宝院を固めていた。東軍のいわば「一の木戸」にあたるところである。九月一日、西軍はこの若狭武田勢の守る三宝院に猛攻を加えた。この戦いで武田信賢の末弟元綱の奮闘があったものの、畠山義就を主とする西軍五万の猛攻で、結局 二千の武田勢は守りきれず敗退、三宝院は焼失した。西軍は、内裏の西にある浄花院を固めていた京極持清勢にも三宝院を落とした勢いで押しかけ、焼き払い、各地で東軍を圧倒した。
 
▼三宝院跡
若狭守護信賢の末弟である元綱(安芸分郡
守護)は、僅か二千の兵で五万の西軍を相手
にして何度も攻撃を跳ね返したという
▼浄花院跡
このころ浄花院は烏丸土御門にあり
当時多くの公卿や武士が係わりを
もっていたとされる

 東軍はいまや京都の東北隅、室町第(幕府)一帯に封じ込められた形となった。
  
 そして西軍は、さらに室町第(幕府)の東に隣接する相国寺の奪取をめざした。
 若狭武田氏の苦難は一層深まっていくのである。

 
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其の三へ続く

 

   


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