応仁の乱と若狭武田氏の奮闘 其の一
応仁の乱前後と若狭武田氏の立場
若狭武田氏と細川氏は、室町中期から戦国期、切ってもきれないほどの関係にあった。それは細川氏が、瀬戸内の支配や対外貿易をめぐって大内氏と緊張関係にあったため、大内氏の周防に隣接する安芸の分郡守護でもある武田氏をなにかと支援していたからである。
このため応仁の乱では、若狭武田氏は細川方東軍の副将的立場にあった。
応仁元年正月八日、
将軍足利義政は突然管領畠山政長を解任、さらに畠山の家督を政長から義就に与えた。これに先立つ二日、年末に将軍の赦免を得ていた畠山義就が、室町第に出仕し、足利義政と対面すると、義政は、正月恒例の管領邸への御成りを中止、さらには五日、畠山義就は山名宗全邸を借用して足利義政の御成を受けるなど、管領畠山政長は大恥を掻かされていた。背景には義就に加担する山名宗全の策略があった。また、管領には、山名宗全の推す斯波義廉が就任した。
ここに至って
細川勝元、畠山政長、斯波義敏、武田信賢、国信(後の東軍)
斯波義廉、山名宗全、畠山義就、一色義直(後の西軍)
の二大勢力の対立は一気に緊張した。
若狭守護武田氏は、前述のとおり、細川陣営に属していた。
逆に、この武田氏と細川氏に積年の恨みを持つ、かっての若狭守護で丹後守護の一色氏は当然のことながら山名陣営に在った。
管領を罷免され畠山邸(万里小路邸)の引渡しを求められた政長は、一七日自邸を焼き払うと、そのまま上御霊社に兵を進め陣取った。この上御霊社は、花の御所(室町第)に近接し、相国寺の北に位置し、細川勝元邸にも近く、暗に勝元の支援と決起を促したものであった。
世にいう「応仁文明の大乱」の火蓋が切って落とされたのである。
本格化する応仁の乱
上御霊社の戦いでは、細川勝元は動かず、斯波義廉の被官朝倉氏のなど応援を得た畠山義就の猛攻のまえに、畠山政長の敗北に終わったが、その直後から勝元は同志の大名に京への軍勢
集結を依頼、また五月に入ると越前・尾張に細川方の斯波義敏勢が侵入するなど、各地の山名方分国で細川方が行動をおこした。
一方、若狭では逆で、山名方に属した一色氏牢人が蜂起、細川方の若狭守護武田信賢が一旦下国してこれを放逐し、五月二十一日再上洛している。
こうしたなかで両陣営は兵を続々と京都に集め、細川方は先手を打って花の御所(幕府)をおさえ、これを本陣としたため細川方は東軍、西側の山名邸を本陣とする山名方は西軍とよばれた。
その兵力は「応仁記」によれば、細川方は都合十六万一千五百余騎であったとされる。主な兵力は細川勝元が六万余騎。同成之八千余騎。同勝久四千余騎。同成春三千余騎
。同常有二千余騎。同教春二千余騎。同持賢二千余騎。畠山政長五千余騎。京極持清一万余騎。赤松政則五百余騎。富樫政親五百余騎。
若狭守護武田信賢は、安芸勢も含め三千余騎。斯波義敏は斯波家重臣甲斐氏、織田氏、朝倉氏が山名派の斯波義廉を支持し、かつ義敏自身越前や尾張の分国で兵を動かしていたため京では五百余騎であった。
一方、山名方の兵力は十一万六千余騎であったとされるが、主な兵力は、山名宗全が三万余騎。同教之五千余騎。同勝豊三千余騎。同政清三千余騎。畠山義就七千余騎。同義統三千余騎。一色義直五千余騎。土岐成頼八千余騎。六角高頼五千余騎。大内政弘二万余騎。河野二千余騎(大内、河野は八月以降参戦)
管領斯波義廉は重臣甲斐氏、織田氏、朝倉氏など一万余騎を率いた。
両軍の兵力は、合わせて二十数万にも及んだ。
五月二四日から、東軍は武田信賢らが、室町第(花の御所)の四足門対面に在る山名方の一色義直の屋形を押さえ、さらに幕府土倉の正実坊、その隣の実相院と大手を押さえる布陣を敷いた。
記録によっては二六日とも見え、二五日の夜半から兵を動かしたとも考えられる。
この直前までは一色氏が、戦闘は避け難いものとして、幕府−一色邸−正実坊−実相院−山名邸のラインを確保していたが、東軍に攻撃され山名の陣に逃れた。
そして、戦いの火ぶたは五月二十六日早朝(寅の刻、午前4時頃)、東軍によってきられた。
越前・若狭のゥ将の戦いを見ておこう。
先ず、若狭守護武田氏の勢力は、すでに押さえた大手南・実相院
に在り、舟橋北部から攻め込む段取りであった。この大手筋には山名氏の四天王太田垣氏の居館もあり、山名一族の西軍と正面から激突した。
大手筋の戦いは太田垣氏の居館を焼失させるなど激戦ではあるも細川方が優位に戦いを進めた。
一方、越前守護も兼ねる幕府管領斯波義廉は山名派に属した。重臣甲斐、朝倉、織田氏ら
を中心に、一条大宮の細川勝久邸の攻撃にあたった。東軍はここに京極持清を援軍として送ったが、朝倉孝景は馬から飛び降り自ら敵数人を切り伏せ、甲斐・織田らも三七人を討ち取って細川方を敗走させた。敗走する細川方は堀川に阻まれ川は負傷兵などで埋まって平地のようになってしまったという。勝久の邸宅も焼失したが、翌日赤松貞村が救援にかけつけると、戦い疲れた斯波勢は廬山寺の西まで追い立てられた。
細川方に在った斯波義敏はこの時越前に在国しており、甲斐、朝倉など重臣が義廉に就くなか、五百と精一杯の手勢を送り込んでおり、京極持清の兵とともに
山名邸を北部から攻撃するため花開院で山名方土岐成頼と対峙、この戦いで花開院は焼失した。
↓一条大宮細川勝久邸跡付近
幕府管領斯波義廉は甲斐氏・朝倉氏を
率いて西軍で戦った |
↓開花院跡付近
東軍に属した斯波義敏は五百の兵力しか
送り込めなかったが士気は高かった |
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「洛北(上京)の戦い」といわれる初戦は、東軍優位のうちに推移し、戦闘は二日間で休止となった。
しかし、東軍優位は長くは続かず、若狭武田氏の応仁の乱での苦難は、ここから始まることになるのである。
其の二へ続く
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