越前若狭歴史回廊  分館
   
逸見氏概略

 若狭武田氏の重臣逸見氏は、武田氏と同族で、甲斐源氏が祖とされる。甲斐源氏の発展の基礎を築いたとされる義清、清光親子は、甲斐の巨摩郡逸見郷に居住し、逸見冠者を称したとされ、この清光から武田氏、逸見氏が分かれたとされる。甲斐の名族であったが、徐々に武田氏に押されていったと考えられる。

 若狭逸見氏は安芸武田氏が若狭守護職を拝領した際に、武田氏の重臣として武田氏に追従して若狭に入部したと考えられが、当所は被官人というより一門衆的な位置にあったと思われる。
 永享十二年(1440)武田氏が若狭守護を獲得した直後には、熊谷信直、山縣信政、粟屋繁盛らは同年に入部したもの、逸見氏はまだ在京したままで奉行人として政務の補佐にあたっていたと考えられる。しかし、嘉吉年間に入ると若狭国内が一色牢人の蜂起や一揆で騒がしくなったため、守護支配強化のため逸見氏も若狭に入部し、安芸、京、若狭を行き来していた。 

 応仁の乱で、東軍にあった若狭武田氏の重要な軍役を占めていたのは逸見氏であった。
 この頃の逸見氏の頭領が駿河守真正(入道宗見)である。宗見の武田家中での地位は在京奉行人であるが、一時守護代であった可能性も残されている。
 武田氏は、応仁の乱では主に洛東方面を受け持ち、文明元年(1469)北白川に城を築き、翌二年には山科や勧修寺に出陣して西軍と戦った。また、西軍に属した一色氏の丹後守護職も、幕府(東軍)より武田氏に与えられたため、逸見氏は丹後に討ち入り一色勢と各地で戦った。
 京で戦ったのが逸見弾正忠繁経であり、丹後に進攻したのが逸見駿河守真正であるが、最近の研究では、逸見の嫡流は代々弾正忠ついで駿河守を称したと考えられており、そうだとすれば真正と繁経は親子の可能性が高い。

 この時期、逸見氏が一番勢力を誇った時期であるが、繁経は乱のさなかに討死にし、真正は丹後で自害に追い込まれ、逸見氏にとって大打撃であった。跡を継いだのは国清であるが、延徳二年 (1490)武田国信が卒去しその子元信が継ぐと、貴族趣味で文芸志向の元信と、武田氏の軍事を差配してきた逸見氏と間には次第に溝が生じてきたと考えられる。
 一方で元信は、粟屋親栄を重用し次第に粟屋氏が勢力を伸ばしはじめる。
 逸見氏と粟屋氏の権力争いは、この頃から始まり、武田氏衰退期まで続くのである。
 永正・天文の二度の叛乱は、武田氏の家督争いに加え、粟屋氏との確執など複雜なものがあったと考えられるが、結果は失敗に終わり、強大な権力は失墜した。

 逸見氏が、再び勢いを盛り返すのは天文年間の逸見昌経の出現を待たねばならなかった。
 その昌経は、当所は主人武田氏と蜜月関係にあり武田信豊の奏者としての役割を果たしていたが、弘治二年(1556)武田信豊と子の義統に家督争いが起きると、信豊には逸見昌経・粟屋勝久がつき、子の義統には朝倉義景がつき、永禄四年(1561)六月、11,000人といわれる朝倉の大軍の前に昌経の砕導山城も落城に追い込まれた。
 このため昌経は永禄八年(1565)、若狭国内初といわれる平山城で、水軍も考慮した高浜城を新たに築いた。
 永禄九年(1566)、今度は義統と子息元明との争いが勃発すると、武田義統には再び朝倉氏が加勢、元明には逸見氏、粟屋氏がついた。結果、またもや昌経は敗北を喫してしまう。

 しかし、若狭守護武田氏はもはや守護家としての力は無く、最後の当主となる武田元明が朝倉氏に拉致(保護)され一乗谷に連れ去られると、織田信長に通じ、元亀元年(1570) 四月の信長の朝倉攻めに参加、天正三年(1575)八月の越前一向一揆攻めでも水軍を率いて参加している。

 天正九年(1581)二月、京での信長の馬揃えに一番衆として馬場入りし、所領も3,000石の加領を受け、若狭衆の筆頭格にあったが、直後の三月に病没した。
 子があったとされるが家督相続は認められず、昌経の所領は分割され、若狭逸見氏は没落した。
  
 
   


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