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園松寺(えんしょうじ)・逸見昌経菩提寺 園松寺の開基は若狭武田氏重臣として名を馳せた高浜城主逸見昌経で、開山は昌経の帰依を受けた永門如是(えいもんにょぜ、〜一六〇六)である。臨済宗相国寺派の禅宗寺院である。 もとは昌福寺と称し、その創建については園松寺文書(由緒書)によると、天文年間とされているが、実際には天正年間と推定されている。 ![]() 近世に入ると、園松寺は臨済宗相国寺派の本山・末寺制度の中で、本山相国寺と若狭国内に所在する三十四ヶ寺を統括する觸頭(ふれがしら)寺院となった。そして、万一、園松寺の法系が断絶した場合には、光源院(相国寺塔頭)か慈照寺(銀閣寺)の住職が相続することと決められていた。 開基の逸見昌経は、若狭武田氏重臣逸見氏の最後の当主で、守護武田信豊の奏者を努めるが、その子の義統時代には二度にわたる大規模な叛乱を起す。また砕導山城を棄て若狭国内初といわれる平山城(水城も兼ねる)・高浜城を築いたことでも有名である。 最後の若狭守護主となる武田元明の時代には、守護元明が朝倉氏に拉致(保護)され一乗谷に連れ去られたこともあり、織田信長に通じ、信長の越前朝倉攻めに加わり、天正九年二月二八日、京での信長の馬揃えに一番衆として馬場入りし、若狭衆の筆頭格にあったが、その一月後の三月二六日に病没し、菩提寺である当昌福寺(園松寺)に葬られた。
天明八年には昌経の二百年遠忌が営まれている。 |
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