越前若狭歴史回廊  分館
   
粟屋氏概略

 若狭武田氏の重臣として逸見氏ともども活躍した粟屋氏であるが、その出自は不明な点が多い。逸見氏同様甲斐から安芸、そして若狭へ守護武田氏に従って入部した同族と考えられる。粟屋氏惣領家は代々右京亮、後に越中守の官途を世襲したと考えられ、若狭守護職獲得後の信賢時代にすでに在京奉行人として粟屋越中守が見出せる。

 その子賢家も文明年間以降在京奉行の地位にあった。
 文明年間、それまで軍役の中心で筆頭宿老あった逸見氏は、丹後で当主宗見が自刃、またそれに先立っての嫡男繁経の敗死によって、威勢が相対的に弱 まる。そのなかで、粟屋氏を守護武田氏の中心軍事力に押し上げたのは彼である。
 将軍義材の六角攻めのさい、武田の軍勢の先陣を務めたことでも知られ、守護元信側近として活躍した。没年は文亀三年で、法名は玄要とされている。

 賢家の嫡男は笑鴎軒宗怡と称した人物と推定されているが、もう一人左衛門尉親栄がいる。親栄は三条西実隆に師事し、文芸に親しんだことで名を知られている。守護元信、元光の父子二代にわたる側近として活躍、特に元信の丹後侵攻には武田軍の大将として出陣、徐々に戦況が不利に傾くなか、永正四年六月に討死した。この間三条西実隆交流は有名で 、その死を聞いた実隆は追悼歌を詠んでいるほどである。
 親栄の子が孫四郎勝春で、父と同様に文芸面で三条西実隆に師事していた。

 笑鴎軒宗怡の嫡男で宗家を継いだのが右京亮元隆である。
 元隆は守護武田氏の若狭支配の中核である小浜代官として統治機構の中枢にあり、遠敷郡の名田荘や宮川に大きな勢力を築いた。この頃有力家臣の死没が相次いだことも元隆の存在を一層大きなものにした。
 大永七年二月、細川高国とともに戦った川勝寺合戦で若狭武田氏の部隊を率いていたのは彼であった。 粟屋党で500、守護武田氏率いる若狭衆1,500であったとされるが、戦いは細川氏や武田氏の敗北に終り、結果、守護元光は細川氏とともに将軍義晴を奉じて近江に一旦逃れ た。元隆はその後下国し、体制を建て直し十一月にはまた粟屋一族を中心に一千の軍勢を率いて上洛し、都人の注目を浴びた。

 そして天文七年、元隆はついに主人武田氏に反旗を翻す。これは失敗におわるものの、その後の武田氏家臣団の長い反乱のはじまりであった。
 元隆の反乱が失敗に終った後、小浜近辺の粟屋氏宗家の所領は悉く取り上げられ、三方郡などに遠ざけられる。

 永禄年間、守護武田義統から離反し、三方郡佐柿の国吉城に篭もり、朝倉氏の懲罰に抵抗したことで名を馳せた越中守勝久は、血縁、つながりは明瞭でないもの の粟屋氏宗家の後継者と目されている。後に若狭が織田信長の支配下に入ると、若狭衆の主要メンバーとして活動した。

 本能寺の変で信長が横死すると、粟屋勝久は秀吉配下となり、各地に転戦し、天正13年2月病死。その子勝家も秀吉に仕えたが、大阪の陣の最中に死没する。その後、勝家の子助太夫は藤堂藩に、同じく子の勝長は臼杵藩に仕え、後に子孫は家老 を勤めた。

 

   


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